奏汰の纏う雰囲気がいつもと違う気がする。

「さっき、松岡と何話してたの?」

 先ほどの松岡との会話の様子が見られたらしい。幸いな事に内容までは聞かれていないようだが。
 やはり、奏汰の表情も声もいつもの柔らかさが無く、感情が感じられない。普段と違う様子に雫は不安になる。

「羽野さん?」

「会社ではキッチリ苗字で呼ばれちゃうんだ。ふたりきりなのにな」

 彼にしては棘のある言い方だ。やはり、こんな奏汰は初めて見る。よっぽど気に障ることをしたのだろうか。

「……あんな顔、俺以外の奴に見せちゃダメなんだけど」

「え、あんな顔って?」

 そんなに見苦しい顔をしていただろうか。

「松岡と話しながら恥ずかしそうにしてた。顔を真っ赤にして」

「あ、あれは……っ!」

 確かに見苦しかったかもしれない。でも……

(あれは、あなたの事を思い出して赤くなってたんです!)

 とも言えず、雫が開きかけた口のまま固まっていると、奏汰は短く溜息をつき、長い脚を踏み出しとゆっくりと近づいてくる。

 少しづつふたりの距離が短くなり、雫は思わず後ずさろうとするが、キャビネットを背にしているため動けず追い込まれてしまう。

 奏汰は目の前に立つと両手を雫の頭の両脇に付いた。キャビネットの扉が雫の後ろでギシリと軋む。

(ん?これって『キャビネットドン』とかいうやつなのかな)

 そんなものがあるかなんて知らないが、混乱しずぎて、逆に冷静に自分の置かれている状況を意識してしまう。

 定時過ぎ、会社の誰もいない資料室で奏汰に追い込まれ逃げ場を無くしている。
 しかも彼の纏う雰囲気がいつもの穏やかなものとは違うのだ。

「ねぇ、ふたりで何話してたの?」

 彼の両腕に囲われた状態で再び静かに問われる。

「し、社内ワークプレイスのPTに松岡さんも入ったっていう話を聞いていて……」

「へぇ、その割になんで君は真っ赤になってたの?あんな可愛い顔されたら……男は勘違いする」

(だから!好きな人の事聞かれて、あなたの事真っ先に思い出して、ドキドキしてました。その後自分の気持ちを認識しちゃってました――なんて言えないんです!しかも可愛いって何でしょう!?)

 いよいよまずいと思った雫は無理やり話題を変えようと試みる。

「気のせいじゃ、ないですか、ね?あ、えっと、勘違いと言えば、そろそろ婚約者として社長にお会いしても良いころかなって思うんですが」

 我ながら話の展開が突拍子が無いが、しかたない。力技だ。

「……どういうこと?」

 奏汰の表情がさらに硬くなった気がした。

 不穏な雰囲気を感じながらも、一度切り出してしまうと止める事が出来ない。何となく奏汰から目を逸らしながら続ける。

「同居させていただいてそれなりの期間経ちましたし、前に羽野さんの言っていた『他人じゃない感覚』は完ぺきじゃないですけど、それなりにあるのかなと」

「それって、もう俺との同棲を終わらせたいって事かな」

(同棲じゃなくて同居です!)と心の中でツッコミながらもそれには触れないでおく。

「いつまでも、お世話になっているのはご迷惑ですから」

――きっと、これが奏汰が待っていた言葉だろう。もっと早く言うべきだったのだ。

 しかし、そうだよね!とアッサリ快諾されるのも複雑な気分だ。少しは寂しがってくれたらと身勝手な事を思ってしまう。

「…………」

(……あれ?)

 しばらくしても一向に返事が無い。恐る恐る顔を上げると、奏汰に至近距離で見据えられていた。その表情を見て驚く。とても傷ついた顔に見えたのだ。

「……前にさ、君は俺に婚約者のフリをするのに課題があったら言って欲しいって言ってたよね。その課題、思いついたんだけど……今試してもいい?」

 鳶色の瞳の色が心無しか深みを帯びて見える。

「はい?」

「婚約者なら……これくらいは出来るようになってないとね」

 雫の頬を右手のひらで優しく撫でた奏汰は背を屈めた。

 一瞬の間の後、耳元で

 「……キス、するよ」と囁いた唇がするりと頬を滑る。

 「!?」

 奏汰の唇が自分の唇に重ねられている。

 その事を理解するまで暫くの時間を要した。

 身動ぎも出来ず、奏汰の伏せられた目元を見ている間に、角度を変えたに口づけを続く。
 まるで雫に言葉を発する隙を与えないように。
 
 奏汰の少しひんやりした唇に雫の温度が奪われていく。

 混乱の中にありながら、雫は今まで経験したことの無いような蕩けるような刺激が唇から体中に広がっていく感覚を覚えた。

「ん…ぅ」

 雫が思わずくぐもった声を出すと、奏汰は合わさっていた唇を少し浮かす。

「……しーちゃん、キスするときは目を閉じて……さすがに恥ずかしい」

 鼻先で低くささやかれた雫は、呪文をかけられたように素直に目を閉じてしまう。

 奏汰は、ハァ、と息を付いた後、今度は大きな手で雫の両頬を包み込み、さらに口づけを深めようとした。

 その時

 ヴゥーー

 奏汰のスーツの胸元から振動音が響き、スマートフォンの着信を告げる。奏汰の動きが止まった。

 静かな部屋に響く音。雫は一気に我に返り、現実に引き戻された。

「そ、そ、奏汰さん……電話です」

「……」

 奏汰は両手で雫の頬を包んだ状態のまま黙っている。振動音は止まらない。

「電話!出てください!」

「…………」

 かなりの間があった後、奏汰は自らを雫から引き剥がすようにすると距離を取り、背を向けスマートフォンを取り出す。

「父さん……仕事中なんだけど」

 ものすごく機嫌の悪そうな声だ。やはり何か虫の居所が悪いのだろうか。

 そして仕事中に自分がしていることは棚に上げている。

 どうやら社長のプライベートの番号からの着信だったらしい。彼も息子として電話に出ている。
 これが社長としてのオフィシャルな番号からの着信だったら部下としてきちんと出ていただろう。

「タイミングが悪すぎて大丈夫じゃないけど、何。あぁ…え、アイミが?本当に?……そうか。あぁ、わかった。今から行くよ」

 プライベートの電話を聞いてはいけないと思い、部屋を出ようと思った雫だったが、なぜか足に力が入らず、キャビネットを背にしたまま動けない。

 暫くして電話を切った奏汰はスマートフォンをポケットに戻しながら雫に向き直る。

「しーちゃん、いろいろ上手く伝わってないみたいだから、一度俺の話をちゃんと聞いて欲しい。今から実家に戻らなければいけなくなったから、明日の夜時間を作って貰ってもいい?」

「はい……わかりました」

「俺は今から実家に向かうけど、帰りはくれぐれも気を付けて。マンションに着いたら連絡して。今日は向こうに泊まる事になりそうだから、君ひとりになっちゃうけど、大丈夫?戸締りにも気を付けてね」

 先ほどまでの不穏な雰囲気は失せ、雫の事を細かく心配してくれるいつもの優しい奏汰に戻っている。

 奏汰は雫の頬を優しく撫でた後、部屋を出て行った。

 彼の後姿を見送っていた雫は、パタンと静かに扉が閉まる音を合図にズルズルと床にへたり込んだ。