「雫先輩!」

 定時後、資料室にファイルを戻そうと廊下を歩いていた雫は呼び止められた。

「松岡さん」

 歩みを止めてる振り返ると松岡拓海が笑顔で立っている。

「『松岡さん』なんて。後輩なんだから『松岡くん』とか『松岡』って呼び捨てで良いですよ」

 前々から言われているのだが、それは聞き流している。後輩であろうと社内の人を馴れ馴れしく呼ぶのは苦手だ。

「どうかしましたか?」

「僕もワークプレイスのPTに参加したんですよ」

「そうなんですか」

 各部署から若手のメンバーが選抜されて参加するこのPTに彼も入ったと言う。

 知り合いがいた方が心強いと雫は少し安心する。

「実の所、先輩がPT入るって聞いて手を挙げたんですよ。もっとお近づきになりたくて」

 人懐こく笑いながら言う。これが、先輩女子社員達を虜にしている笑顔だろう。
 しかし、自分が入るPTでなぜ自分とお近づきになりたいのだろう。

「パソコンの事なら言っていただければ、いつでも見れますよ」

 彼はPC操作やデータ作成で分からなくなった時に声を掛けてくる。そういえば最近その頻度が多い気もする。確かに営業職も高いPCスキルが必要とされるので、努力して身に着けようとしているのかもしれない。

「そんな事言ったって、先輩、仕事に集中し始めると声かけづらいじゃないですか。まぁ、そんな姿も良いんですけどね……っと、そうじゃなくて」

 急に言葉を切った松岡は雫にグイッと近づく。 

「最近どうしたんですか?僕焦っちゃって」

「はい?」

 雫は首を傾げる。何を焦る必要があるのだろう。

「雰囲気が変わったって営業部でも評判ですよ。もしかして……恋人が出来たとか?」

 松岡が探るように小声で言う。気が付けばさらに彼との距離が近くなっているのだが、突拍子もないことを言われたため、そちらに気を取られてしまう。

「コイビト!?こ、恋人なんて……いません」

(なんて、おこがましい想像をしてるんだろう) 

 あろうことか、恋人と聞いて真っ先に浮かんだ来たのは――奏汰の顔だ。

 慌てて頭の中からその端正な顔をを追い出そうとする。

「いないんですね!」

 松岡は「やった」と何故か嬉しそうな顔をして続ける。

「じゃあ、好きな人がいたりするんですか?」

「好きな人?」

「そう。先輩が惹かれて、ずっと一緒に居たいって思うような人。そんな風に思われたら幸せだろうなぁ」

(……一緒にいたいと思うような人)

 ふいっと松岡から目をそらす。頬が赤くなってしまってるかもしれない。

 その表情をみた松岡は少しぽかんとしてから「ギャップやばいな」とつぶやいている。なぜか彼の顔も赤かった。

 微妙な雰囲気にいたたまれたくなった雫は松岡が

「先輩、僕」

 と何か言いかけたのに気づかず

「あの、失礼します」

 と言い残し、早足にその場を去った。




 だれも居ない資料室に飛び込みドアを閉める。
 ちょうど良かった。ここなら誰も居ないので火照った顔を人に見られることも無い。

 はぁ~っとため息を付き、少し気持ちを落ち着かせてから、手に持っていたファイルをキャビネットに戻す。

(……私、奏汰さんの事)

 分ってしまった。姿を見ても、心の中で思い浮かべも、切なくて甘い気持ちになるのも、奏汰しかいない。

 一緒に笑いあえると幸せだし、彼の為に何かしたいと思う。
 そして、ずっと一緒にいたいと思ってしまう。

「……好き、なんだ」

 零れ出た言葉が、自分自身に想いをはっきりと意識させ、同時に胸が締め付けられる。

 本当はもう随分前から彼に惹かれていたんだろう。
 あんなに優しくされたら、守られたら、笑顔を向けられたら好きにならないほうが難しい。

「どうしよう……」

 奏汰は言っていたではないか。勘違いされることがあったら困ると。だから安全であろう雫に婚約者のフリを頼んだのだ。
 勘違いなどしていないが、あろうことか、本気で好きになってしまった。
 この気持ちを認めてしまえば、奏汰との生活を終わりにしなければならなくなる。

 最近はお互いの性格やペースもわかるようになってきていた。奏汰は元々上手く立ち回ってくれているし、雫も奏汰と一緒に居ても緊張することが無くなっていた。たまに距離が近すぎて慌てることはあるが。

 もう社長に会って『プレゼン』をしても問題ないと思えるほど、成果は出せていると思う。
 しかし、敢えて雫はそれに気が付かないふりをしていた。なぜなら業務目標は達成したら終わりになってしまうから。

(奏汰さんは優しいから、あの快適なマンションから私を出て行かせるのが可哀そうと思って、何も言わないで……引き延ばしてくれてるんだよね)

 内心、そろそろこの生活を終わらせたいと思ってるかもしれない。
 奏汰の気持ちを考えると罪悪感で胸が重くなる。

 しかし、ずっとこのまま一緒に居たいと彼に甘えて誤魔化し続けていたのは自分だ。
 このままではいけない。状況を客観的に把握したら、対応方法を考えるしかない。
 せめて婚約者のフリをするミッションはしっかり全うして立派に役目を終えなければ。

 そしてそれは早い方が良い。


 ファイルを戻す手を止めて考え込んでいると、静かな部屋にガチャリとドアが開く音が響く。
 定時後のこんな時間に資料室に来る人がいるとは思わなかったので驚きでビクリとする。

「しーちゃん」

 ――この呼び方をするのは彼しかいない。

「そ……は、羽野さん、どうされたんですか」

 慌ててファイルを戻し、キャビネットの扉を閉じる。

 声がした方を見やると後ろ手でドアを閉めた奏汰がそのままドアにもたれかかり、こちらに視線をよこしている。

 今まさに恋心を自覚した相手が立っている事に動揺してしまう。

「君が慌ててここに向かう姿が見えたから」