雫の朝の出社時間は早い。

 少し夏めいた日差しを眩しく感じながら、今日も始業30分前には出勤しパソコンを立ち上げる。

 奏汰と同居し始めてからそろそろ1ヶ月になる。マンションでの生活にもだいぶ慣れ、順調な日々だ。

『課題があったら言って欲しい』と頼んだものの、奏汰からは特段何か要求される事はなかった。

 いわゆる「御曹司」である彼だけに、どれだけセレブじみた生活をしているのかと当初は怯えていたのだが、思いのほか、普通の生活だった。
 彼曰く子供の頃から親から特別扱いされる事は無く、至って一般的な育てられ方をした、らしい。
 まあ、海外生活が長かったり、国内屈指の有名大学を付属高校を経て卒業していたり、あの自宅マンションのグレードを考えたら彼の言う『普通』は雫のそれとはかなり違う気がするのだが。

 奏汰は意外に家でのんびりするのが好きらしく、休日はふたりでDVDを観たり、マンションの前の公園をのんびり散歩したり、買い物に行ったりと、仲良し夫婦のような生活だった。もちろん寝室は別だ。

 ただ一度だけ『初デート』のあの日、奏汰の腕の中で散々泣き、事もあろうがそのまま寝てしまうと言う大失態をおかした雫は、目覚めた時彼の部屋のベッドにいた。

 泣き疲れて寝てしまった雫をそのままにしておけず、勝手に雫の部屋に入るのも悪いと思った奏汰が彼の部屋に連れてきて寝かせてくれたらしい。

 寝ころんで頬杖をついた奏汰の整った顔が目の前にあるという添い寝状態に、大いに混乱しながら平謝りしたのだが、

『しーちゃんの可愛い寝顔を一晩中見れたから良いよ』と上機嫌で笑っていたのは……気を使ってくれたのだろう。自分の話を根気よく聞いてくれた上、優しく慰めてくれたというのに、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 しかし、この事を切っ掛けに雫の中で少し意識が変わった。

 今まで抑えていた感情を放出させたせいだろうか、常に自分を覆っていた薄くて濁った膜のようなものがするりと剥がれた気がしたのだ。

 奏汰が今のままの雫を全肯定してくれた事で、安心してそこから一歩踏み出してみてもいいのではないか、という思いが芽生えた。心の余裕が出来たからだろうか。

 もちろん急に人と話すのが得意になる事も無いし、不器用さも仕事に対する取り組み方も変わらない。

 でも、少しだけでも前向きに。
 その意識は雫の服装にも表れた。

 奏汰がショッピングモールで大量に買ってくれた洋服も少しずつ着るようになった。

 初めの日はパステルカラーの花柄のフレアースカートを手持ちのグレーのシンプルなプルオーバーに合わせてみた。

 朝、奏汰に見せてみたところ

『会社に、着ていくの?……それはまずくないか……いや、似合ってるんだから、いいんだよな……うん、いいと思うよ』

 と、何やら自らを納得させるように呟いていたので、本当はあまり似合ってなかったのかも知れない。
 でもせっかく買ってくれたものだし、スカートがいつもと違うだけだから誰も気にも留めないだろうと、思い切ってそのまま出社してみたところ、朝一番の挨拶代わりに関田にチェックされてしまった。
 恥ずかしがる雫に彼女はとても似合うと褒めてくれた。

 さすが美魔女。ファッションに詳しく、その後もコーディネートのアドバイスやメイクや美容法について色々教えてくれ、雫も自分が出来そうなものを少しだけ試したりしている。
 気さくな彼女に姉のような感覚を覚え、最近では沙和子も連れ立って3人でランチに行くこともある。
 沙和子以外の人と親しくなるなんて、今までの自分には無かったことだ。


「おはよう!安藤さん、今日も早いのね」

 関田が居室に入ってくる。

「おはようございます。関田さんも早いですね」

「息子が友達の家に泊まりに行って居ないから旦那とカフェでモーニング食べてからきちゃった」

 彼女の夫は研究開発部一の優秀な技術者で課長職を任されている。結婚20年を超えても嫁が大好きで少しでも一緒にいたいらしい。

『ちょっと、面倒くさいのよ』と苦笑するが、彼女もまんざらでもなさそうだ。

「そういえば、安藤さん社内ワークスペースのPTに入ったんだって?」

 関田が袖机からファイルを取り出しながら言う。

「はい、やってみたらと羽野さんに勧められまして」

 社内での部署間交流を図る事を目的にオフィス内の環境整備の改善をするPTが総務部主導で発足した。

 現場の社員のアイディアや要望を取り入れていきたいという事で、PTには各部署から若手を中心に選出されのだが、やってみたらどうかと奏汰に勧められた。

 これまでなら、こういった業務には二の足を踏んでいたかもしれない。個人の意見だけでは無く、他人と意見を出し合い新しいことを進めていかなければならない。しかし、今回は奏汰からの打診を受けた。これも自分なりに勇気のある一歩だった。

「初回の打ち合わせに向けて、現状の問題点や、あるべき姿を簡単にまとめていこうと思ってます。今、思っているのが休憩コーナーの改善なんですけど。あそこが自然と人が集まる環境になれば、他部署との人との交流も活発になっていいなと思うんですよね」

 皮肉だが人との活発な交流を極力避けていただけに、逆にそこに着目出来たのかもしれない。

「さすが!安藤さんまじめだわ。うん。確かに広さはあるけれど自販機とベンチと観葉植物だけで今一つパッとしないもんね」

「良いアイデアがあったら教えてください」

「うん。わかった……それにしても安藤さんったら、最近変わったわよね。元々カワイイのに最近服装も明るくなってきたし、表情も明るくなったし。知ってる?男どもがザワついてるの。安藤さんの良さに今頃気がつくなんて。私なんかもっと前から知ってるんだから!」

 チッと舌打ちをするように言う。美人が台無しだ。

「それは無いですよ」

 最近火が付いたアイドルの古参の追っかけみたいな発言に苦笑して答える。

 元々可愛く無いし、今も可愛く無い。確かに最近以前より話掛けて来る人が増えたような気がするが、男女問わず仕事の話だ。そして、相変わらず物怖じしてしまい上手い受け答えはできないままだ。

(でも、少しは話し掛けやすい雰囲気になったのかな。だとしたら奏汰さんのおかげかも)

 毎日彼と会話をしていることが雫には他人とコミュニケーションを取るリハビリになっているような気がする。ひとえに彼の心の広さと人当たりの良さのおかげだろう。

 雫はそろそろ出勤するであろう奏汰に想いを馳せた。

 最近ふとした時に奏汰の事を考えていることが多い。

 その度、胸を締め付けられるような切ない感情が生まれていることに、雫は戸惑っていた。