風が心地良い日の午後だった。5歳になった楊玉環は外で遊びたくてそわそわしていた。汗っかきの玉環は春から初夏の気候が好きだ。こんな日は動き回っても汗を掻かないし身体がとても軽く感じられる。早く外に出て遊びたいのだが、近々蜀州の武術大会があると言うので観戦に来る親戚を待っていた。
 玉環は両親から
「叔父さん達にはきちんと挨拶をするんですよ。それから外で遊ぶなら危ないからお姉さんや従兄弟達に連れて行って貰いなさい。」
と言われていた。

 従兄弟達が到着すると玉環は親戚への挨拶もそこそこにすると外へ飛び出した。子供達は揃って池の畔に向かった。姉や従兄弟達が後から歩いてくる。小枝では小鳥がさえずり、花には蝶が集まり蜜を吸っている。玉環は特に黄色い蝶がお気に入りだ。今日挿している鈿にも黄色い蝶の絵柄が付いている。玉環は欲張って翔んでいる蝶を髪飾りにしたくなった。みんなから離れ先に走り出し蝶を捕ろうとしていたが、蝶は易々と玉環に捕まってはくれない。玉環は右に左に飛び跳ねながら蝶を追い回した。

 池の縁を一人の男が歩いて来た。子猫がじゃれるように蝶を追い回す少女の姿が男の目に留まった。男は蝶が群れている花に静かに近付いた。男は暫くじっとしていたが、ゆっくり両腕を広げた。玉環も男に気付いた。男は広げた両腕を風で揺れる枝のように閉じ、掌と5本の指で蝶を包み込んだ。蝶はその中で羽をばたつかせている。玉環はその蝶が欲しくて、男の顔を見た。男も鈿の絵柄に気付き笑みを浮かべると玉環の顔を見ながら籠状にした手を差し出した。視線があった瞬間、玉環は男の澄んだ目に引き込まれそうになった。少し恥ずかしくなった玉環は目を逸らすと乱暴に男の手の中の蝶を捕ろうとした。勢いで男の両手の指が離れその瞬間蝶は空高く逃げてしまった。玉環は少し悲しくなった。

〈ねえ、もう一度捕まえてよ〉
と玉環は心の中で呟き男の顔を見つめた。男は笑みを浮かべると花に背を向け水辺に近付き右腕を前に突き出した。腕の先には数本の杭があり、緑の地に黄色い縞模様の大きな蜻蛉(とんぼ)が止まっている。その近くを別の黄緑色の蜻蛉が旋回している。玉環は男の後ろでしゃがみ込んで何が起きるのか見ていた。黄色い縞の蜻蛉は黄緑の蜻蛉が近付く度に追い払っては杭に戻る。そんな光景が繰り返された後、蜻蛉は杭でなく男の拳に止まった。男の後姿から生命感が消えて空気や木々と一体化していた。蜻蛉の目玉は太陽の光を受けて緑の宝石のようにきらきら輝いている。玉環は今度は蜻蛉が欲しくなり男の腕を手繰り寄せてやろうとしたが、玉環が立ち上がると蜻蛉は驚いて飛び立ち一番沖の杭に止まった。
 男は笑って去って行った。

 男は歩いていると言うよりも風に乗って進んでいた。玉環にはそう見えた。男が傍を歩いているのに小鳥はさえずりを止めず、蝶は存在に気付かないのか花の蜜を吸い続けていた。水辺を飛ぶ蜻蛉でさえ、男を避けずに飛んでいる。蜻蛉が男の脇をすり抜けて行くのだが、玉環には蜻蛉が男の身体を通り抜けたように見えた。
〈不思議な人〉
 男の印象、それは周囲より濃い空気の塊が人の姿をしている、そんな感じだ。

 玉環はやっぱり宝石のような眼の蜻蛉がどうしても欲しい。水辺まで行くと男の真似をして両腕を池に向かって差し出すように伸ばしてみた。蜻蛉は玉環に近付くどころか池の中央へと逃げてしまう。水面に視線を向けた。水面には空が映っていた。
〈あたしはどんな風に見えるんだろう〉
 玉環は自分の容姿が気になった。自分の顔を水面に映そうと身をのりだした。漣が立っていた。心地良い風が少し憎らしかった。何とか自分の顔を映そうと鼻が水面に付く位まで顔を近づけた。その瞬間、頭から池に落ちた。玉環は咄嗟に息を止めた。水草の繁った池の中が見える。自分の状況がはっきりと把握できないまま無意識に手足をばたばたさせた。もがいているうちに頭が水面に出た。息を吸い込んだとたん水を呑んでしまった。咳き込んで身体の動きは止まりすうーっと沈んだ。頭の中は混乱していたが自分は池に落ちてのだと判った。声も出せずにもがいた。息ができない。苦しさと恐怖と薄れる意識の中で玉環は水の中ってなんて静かで平和なんだろうと考えた。

 玉環から少し離れて遊んでいた姉や従兄弟達も騒ぎ始めた。
「玉環が池に落ちた。」
「誰か、誰か、助けて」
 叫びながら家に向かい走って行った。
 姉が一人だけ立ち竦んでいた。彼女は玉環に近付く陰に驚き動けなかった。

 男は水音のした方角を見た。池に落ちた先程の女の子が見えた。水深があり女の子の背が届かないのが判ると上半身の衣服を脱ぎ捨てた。身体に水を掛け水温を確認すると頭から池の中に滑り込み両腕を前方に伸ばし潜水泳法を始めた。男が溺れかけた子供を助けるのは初めてではなかった。初めて助けた少女は男が想いを寄せていた。この時は冷たい水の中に何も考えずに飛び込んだ。身体が一気に冷え自分も水底の沈でしまうのかと思った。男は今、冷静に行動できる自分がとても可笑しかった。

 水深は玉環の背よりは深いが男の身長なら頭が出る。但、水底を歩くよりは水中を泳ぐが速い。男はそう判断して近付くと玉環の下に潜り込み背中に乗せた。玉環は本能で男の首にしがみ付いた。顔が水面から出た途端、玉環は違う世界から元の世界へ戻って来たのだと錯覚した。男の背に玉環の速い息遣いが伝わる。玉環はまだ男の首にしがみ付いていた。か弱い力で男の首を閉めるような状態だ。男はこれがこの少女の精一杯の力なんだろうと背負って岸に上がった。玉環の意識がはっきりしているので、
「もう大丈夫だよ。大きく息を吸ったら、ゆっくり吐いてごらん。」
と話しかけ背中を擦った。玉環は気持ち悪くなり呑んだ水を戻してしまった。同時に少しむせっていたがそれも直に治まった。
 今の玉環は水に落ちたのを助けられた子猫だ。

 玉環が溺れかかっていた時間。それは男が息を吸い込み潜っていた時間と同じくらいだったのだがとても長く感じられた。陸の上で今まで見て来た光景とは違った光景が記憶に焼きついた。魚や水草が間近に見えた。おまけに飲みたくない水をたくさん飲んでしまった。
〈この水はおいしくない。〉と顔を顰めて池を見た。
 少し落ち着いた玉環は男の目を見た。優しく澄んだ目なのだが何処か遠くを見ているようでもあった。〈貴方は何処を見ているの?誰を見ているの。〉そう尋ねてみたかった。男の広い背中に乗せられた時から不思議な安堵感を感じていた。両親といる時とも違うとても不思議な気持ちだ。

 遠くから大人達の声が聞こえた。
「何所だ、落ちたのは。」
「どのくらい経った。」
 男は玉環に言った。
「早くお家に帰って着替えるんだよ。」
 男は大人達が来るのが分かると再び去って行った。玉環は今起きた事が夢のようだ。でも服が濡れていた。本当はこの男ともう少し一緒に居たかった。不思議な安堵感に浸っていたかった。

 玉環を傍観していた姉の目にはこの光景が違ったものに映った。
 池に落ちた玉環に巨大な怪物が身体をくねらせ近付いた。姉は玉環が食べられてしまうのだろうと怖くなった。玉環に近づいた怪物は人の姿に変わり、玉環を岸に戻すと歩き去った。

 皆が集まって来た。
「玉環、無事だったの。大丈夫かい。」
「自分で岸に戻ったのかい?」
 口々に話しかけてくる。
 溺れかかり怖くて震えている玉環を想像していた大人達にびしょ濡れの玉環は目を輝かせ楽しそうに話した。
「違うよ。不思議な人に助けてもらったの。」
 大人達は玉環が水に落ちた恐怖から少しばかり正気を失っているのだろうと話し合った。 駆け付けた時は子供達以外に誰も居なかった。大人達は困惑して顔を見合わせた。
 玉環の姉が怯えながら口を挟んだ。
「池の中から大きな生き物が現れて、それが人の姿になって、それで玉環を岸に戻して何所かへ行ったの。」
 大人達は再び顔を見合わせ話した。背中に乗れたなら大きな亀だろうとか、はたまた神聖な玄武が現れたのではとかだった。何はともあれこの娘には大きな力が見方しているとか好き勝手な憶測を喋っていた。
 兎に角、大人達にすれば玉環が無事だったのだからそれで良かった。
 玉環の心にはこの日の出来事と男の姿が深く焼き付いた。