僕は男が落としていったスペアキーを拾い上げると、警戒しながらそれを見つめる。

「どういうつもりなんだ?」



わざと落としたとは考えにくい……が、普通こんな大事なものを落とすだろうか。

考えても仕方ない。僕は人目を盗んでカードリーダーにそれを通した。

あっけなく緑色のランプが灯り、ロックが解除される。

やっぱりこれは罠なんじゃないのか?

そんな考えが頭をもたげるが、もし罠だとしても僕には選択肢などない。

どうせ不法侵入で捕まったところで『目的』が達成出来ないだけだ。

僕は解錠ボタンを押し、誰にも気づかれず中に入った。

中は通路と打って変わって真っ暗で、小さな鉄製の階段が上に続いている。

タワー関係者が通る場所には見えなかったが、僕は意を決して階段を登った。

コン、コン、と金属的な足音が虚空を震わせ、次第に天望のフロアの喧騒が遠ざかっていく。

ここは地上何メートルなんだろう。僕は今、一般人の中では世界で最も高い場所に来ているはずだ。

そう考えただけで呼吸が苦しくなる様な錯覚に陥った。

この先には天上の神が待っていて、罪を犯しに来た僕に裁きを下すのではないかと。

そんな馬鹿げた妄想までもが脳裏を過る。

階段を登りきると、目の前に先ほどと同じ様な鉄製の扉が現れた。

僕はスペアキーを取り出したが、よく見るとカードリーダーがないことに気付く。

その代わりに扉の側面の壁にはキーパッドと、アルファベットで刻み込まれた文字があった。



『What's your name?(あなたの名前は?)

by Laplace's demon.(ラプラスの悪魔より)』



僕の名前? ラプラスの悪魔?

どういう意味だろう?

問題を改めて見直すも、ただでさえ落ちこぼれの僕には難問だった。

悩んだ末、僕は渋々ライプラリを取り出す。

『彼女』に会いたくなくてライプラリには極力頼らないようにしていたが、背に腹は変えられない。

ライプラリを起動すると、幾何学模様のエフェクトと共に『ナビゲーションメイド・メイ』が現れる。

見慣れたアンドロイド調の少女が、ゆっくりと目を開きお決まりのセリフを口にする。

「ライプラリへようこそ、ご主人様。今日はどんな未来をお探し……って、何でそんなトンデモナイ場所にいるんですかッ⁉」



すぐに位置情報探索で『ユグド・タワー』最上部にいることに気付いたメイがキンキン声で騒ぐ。僕はそんなメイを押し殺した声で黙らせる。

「シッ、静かに。誰かに気付かれたらどうするんだ」

「フフーン、そういうことですか。いいですよ、黙っててあげますよ? 例の結果を教
えてくれたらですけどね」

「例の? そんなに人の色恋沙汰を知りたいのか。AIのくせに」

「そりゃ気になりますよ~これでもメイちゃんは乙女ですから」



わざとらしく顔を抑えて頬を赤らめるAIに、僕は黙ってハンカチを突き付けた。

「これは何ですか? ご主人様?」

「告白した時に時雨さんにもらったんだ」

「えー! それってつまり成功ですよね⁉ おめでとうございます――」

「常に一束持ち歩いてるって言われたよ」

「え……?」



メイの顔から笑顔が消える。

「この数日メッセージが何百通も来てたことは知ってるだろ。僕がもう何日も学校に行ってないことも」

「あの……ごめんなさい。ライプラリがスリープ状態だとメイには何も分からず……」

「最新鋭のAIならそれくらい察しろよ!」



思わずライプラリを壁に叩きつける。

これがただの八つ当たりだってことは分かってる。

話す気などなかったのに……結局AIにぶちまけて行き場のない感情を押し付けていることも。

僕はどうにか呼吸を整えると、すっかり縮こまってしまったメイに問う。

「もうこの話は終わりだ。今日は未来を聞きたいんじゃない。今どうしても解かなきゃいけない暗号がある。分からない英単語があるから、翻訳と解読の手助けをして欲しい」



本来なら立ち入り禁止エリアへの侵入の幇助けなど、公的なナビゲーションAIは絶対しない。

だが先程の負い目もあってか、メイは珍しく殊勝な顔で頷いた。

「分かりました……それで少しでもご主人様のお手伝いになるなら」

「じゃあ頼む」



僕がライプラリを暗号に近づけると、メイは即座にそれを翻訳する。

「んーと……直訳すると『あなたの名前は? ラプラスの悪魔より』ですね」

「それくらいはアホでも分かる。ただ『ラプラスの悪魔』という言葉自体が分からない。この世界の神様が悪魔って……どういう意味だ?」



「少し長くなりますが、それは『ラプラスの悪魔』という有名な逸話が元になっています」