時計を見ると、まだ午前十時だった。

学生時代の私なら、まだ夢の世界にいる時間だ。
都会とも田舎とも言えないこの街の平日は、非常に穏やかなものだった。

それなりの人数がどこかへ向かって歩き、すれ違い、車の音や誰かの話し声が空気を泳ぐ。

次はどこへ行こうか。そうだ、一駅向こうの百貨店にでも行こう。

ただ漠然とそう思って、足を動かした。

「危ないぞー」

耳元で息を吹きかけられたような気がして、勢いよく振り返る。

でも、その言葉を発した人間は誰もいなかった。
その代わりに、横断歩道の向こう側にいる若い男性が、真っ直ぐ先を見つめている。

「あー!ぼーう、ぼーう!」

まだ発音がしっかりしない子供の声が、男性の視線の先から聞こえた。それと同時に、キャラクターもののサッカーボールが車道に投げ出される。

「ダメだよ!あぶないから、にいちゃんが取ってくる!そこで待ってな!」

先程の子供よりは少し言葉のハッキリした子が、姿を現した。

それでも五歳くらいだろうか。兄らしくありたい年頃のその子は、軽やかにボールを目掛けて走り出す。

人型を描いた表示は、赤色だというのに。

「だ……!」

私の足が早いか、あの子を目掛ける白い塊が早いか。

一瞬動かなくなった体を恨んだ。0.1秒の差が大きな差を産むことくらい、わかっているのに。

ボールを拾った男の子も同じだった。多分、彼もすぐ戻ってくるつもりだったのだろう。

なのに、今目の前で起こっていることに理解が追いつかなくて、呆然と自分に襲い掛かる凶器を眺めている。

赤い人型は、しっかりと両足をつけて私たちを見下ろす。

白い線を大きく一つ跨いだ。ちぎれる程、腕を伸ばした。

女の私なんかよりももっと細くて柔らかい腕を、握り潰すくらい強く掴んで引っ張る。

あとは足の反動で、後ろに戻ってくれることを願って。

「キキキィー!」

結果的に、白い車は横断歩道の白線に触れる手前で止まった。

子供が、倒れた私の上に被さって固まっている。

「…だ、大丈夫?」

子供がゆっくりと顔を上げ、目が合った。一瞬、こちらを睨むような表情をしたが、すぐに眉が下がり瞳が潤う。

「うああああ!」

「え、あ、ちょ……」

その声を聞きつけてか、母親らしき人とその友達、そしてまだ髪の毛の薄い男の子が公園から掛け出てきた。

「ひろと!どうしたの?大丈夫!?」

母親らしき人は男の子を抱き上げ、横目で私を見下ろす。そこで、車を脇に寄せた白髪の運転手が降りてきて、事情を説明してくれた。

「そうだったんですね!息子を助けてくださって、本当にありがとうございました。もうなんてお礼を言ったらいいか…」

「あーいえいえ!無事で何よりです」

母親も降りてきた運転手も、一般的な〝いい人〟だった。

母親はペコペコ頭を下げ、六十代あたりであろう運転手も「ぼく、大丈夫かあ?」と男の子の顔を覗き見、頭を撫でている。

私も男の子も大した怪我はなく、大事にならずに別れた。多少の汚れや傷はできたが、問題ない。

美容師さんたちのおかげか、それほど髪の毛の乱れもなかった。

ただ、私が気になったのはあの男だ。

ずっと横断歩道の向こう側で、こちらを見ていた。その場に立ち尽くして、信号が青に変わろうと動きはしなかった。

そして私たちが別れるのをみて、どこかへ立ち去ろうとしたのだ。

許せなかったのか、気になったのか、自分でもよくわからない。普段なら決してしないはずなのに、私は男の行く手を阻んでいた。