なにかの突然変異でこういった変わった卵が産まれることはある。この黒い卵も、それと同じように考えられてしまったのかもしれない。
とはいえ、もしかしたら本当に、なんだかすごい生き物の卵かもしれないのに――。
椎奈の記憶を思い出したシーナの脳は、完全なファンタジーと化していてた。
「本当に大きな卵ですね」
黒い卵を見つめていたシーナの横に、アルバートがひょっこりと顔を出す。
近い。ともすれば、吐息が頬を霞める近さである。
「シーナ嬢のお顔のほうが小さい」
セボン以外の異性に免疫のないシーナに、アルバートはにっこりと微笑んだ。
こんな大きな卵と比べられて顔が小さいと言われても。
戸惑いながらも、シーナはなんとか笑みを返す。
「触ってみるか?温かいらしいぞ」
ジャイスがこともなげにそんなことを言うが、シーナは聞き捨てならなった。
「待って、ホラーだわ」
こんなひんやりした空間にずっと保管されているにも関わらず温かいということは、〝中身〟が生きているということではないか。

――ゾッとする。
生きていながら孵ることもなく、ずっとこんな冷たい場所に保管されていながら死ぬこともなく温かい生き物とは?
「ホラー?どこがだ?」
シーナの青ざめた言葉に、ジャイスが心の底から理解できないという顔を浮かべた。
「繊細な感覚をお持ちでないお兄様にはお分かりにならないのかしら」
「なんだと?」
気味悪さのあまり思わずジャイスを攻撃したシーナだが、次にはセボンの能天気な声に仰天することとなった。
「触ってみれば?」
「は!?」
声を上げたシーナをよそに、セボンは遠慮なくその黒い卵に手を伸ばす。
シーナの真横を、大きな卵が横切っていく――カリカリ……。
「なんか聞こえた!」
シーナは背後に立っていたアルバートの背中に思わず隠れ、卵を持つセボンを覗き込んだ。
「なんかってなに?」
「なんかカリカリ言ってた!」
もはや語彙力など恐怖の前では宇宙の彼方である。
「セボン!危ないって!殻を突き破ってゾンビが出てくるかもしれないわ!!」
椎奈の頃に見たゾンビが街を闊歩して感染を拡大する映画を思い出し、シーナは大まじめにそう叫んだ。
「ぞんびってなに?」
「死んでるのに動いて人を食べる人よ!」
「死んでる人がどうやって動いて人を食べるの?人って美味しいんだっけ」
むしろ今死んでいるのはシーナの語彙力だが、それにいちいち付き合ってやるセボンにも問題がある。
アルバートはアルバートで、仕立てのよい服をシーナに思いっきり握られながら、どうどうと馬でも宥めるように声を掛けている。
「大丈夫ですよ、シーナ嬢。よしよし、怖くありません」
「そうだぞシーナ。馬鹿な事言ってないで早くアルバートから離れろ。そいつが着てる服いくらすると思ってんだ。ほら、怖くないから」
「怖いわよ!だってまだカリカリ言ってるもの!」
アルバートとジャイスの声を遮るように、シーナは半泣きで叫んだ。
そこでやっとその場にいた全員が声を潜め、セボンの手にある黒い卵に注目する。
――カリカリカリカリ……。
ひんやりとした静かな空間の中で、卵の内部から響く小さな音。
「ゴキブリでも中に入って中身を食べてるんじゃない」
「いやあああああああ」
この場でジャイスよりデリカシーのない発言をしたセボンの言葉に、シーナが悲鳴を上げる。
「シーナ嬢!」
パニックを起こしかけているシーナの肩を、アルバートが引き寄せる。
「どうどう、大丈夫です、シーナ嬢、大丈夫ですよ」
長身のアルバートに頭を抱えられるようによしよしされ、やはり馬のように慰められながら、シーナは半泣きになっていた。
それを目の前で見せつけられたセボンの手から、するりと黒い卵が落ちる。
「あ」
「あ」
それを目撃したジャイスとアルバートが発した声に、シーナも涙目で後ろを振り返る。
まさしく、冷たい石畳に卵が叩きつけられて、黒い殻が霧散したところだった――「きゅう」。
これはシーナが気を失った声ではない。
それは、霧散した卵の殻の下から聞こえた。
「……きゅう?」
シーナは恐怖も忘れて、思わずそう繰り返す。
そこには、兎のように長い耳を持ち、首周りにぺっとりと濡れたミルク色の産毛が渦巻いている子狐のような子猫のような、不思議な生き物がいた――。
それはぶるぶると頭を振って体に被ってしまった殻やべとべとした液体を落とすと、小さな口を大きく開けて、くあ、と欠伸をした。
そうして自分が乗っかっている何者かの脚を辿り、ゆっくりとセボンを見つめる。
セボンも、自分の真下でじっとこちらを見上げる小さな生き物を見つめ返した。
緑がかったくりくりとした金色と、無感情な青い瞳が交わる。
その生き物はもう一度小さくきゅうと鳴くと、よたよたと立ち上がった。
謎の生き物が、セボンを〝親〟と認識した瞬間だった――。







「吾輩は謎の珍獣、名前はまだない」
シーナは、目の前ですうすうと寝息を立てている〝白いもふもふした生き物〟を前に、ぼそっと呟いた。
ぬとぬとした液体で濡れていた体毛が乾くと、カシミヤもびっくりのふわふわした毛が現れたのである。
謎の黒い卵を床に落として割った挙句、謎の珍獣を孵化させてしまったシーナ達は、お小言は言われたが処罰は免れた。
アルバートがうまく取り繕ってくれたこともあるし、孵化した謎の珍獣の経過が見たい、という国王の熱い要望のためである。
まさか孵るとは思わず食糧庫などに放置していた黒い卵から、生きた珍獣が産まれたのである。所有していた王家としてはラッキーだったという程度の認識で、事件は事なきを得た。
ちなみに〝オショーユ〟はあった。存在した。
椎奈の記憶と比べると少し酸味が強いが、卵液に入れて蒸せば気にならなくなる程度のものだろう。
謎の珍獣騒動が起こり、醤油のことなど頭からすっぽ抜けていたシーナを現実に戻したのはセボンである。
『慌てる前に、〝オショーユ〟は?』
濡れていながらなおふわふわもこもこした小さな獣を腕に抱っこしたセボンに言われ、シーナは慌てて食糧庫のなかを探した。
東の国の言葉は日本語ではなかったが、ジャイスの知識もあり、〝オショーユ〟になんとか辿り着いたのである。とはいっても、黒い卵から産まれた謎の珍獣のインパクトが強すぎて、お醤油がなんぼのもんじゃいという心境ではある。

その珍獣は今、シーナの自室で小さな寝息を立てて眠っている。
今まで確認されたことのない生体だということで、王城で慎重に育てるという案も勿論出たのだが、この珍獣、セボンを親として刷り込みしてしまったらしく、全く離れようとしなかった。
挽き剥がそうものなら小さな牙を剥いて威嚇してくるので、産まれたばかりの小さな体に無体なこともできないと、飼育はセボンに一任されることになったのである。
だがしかし。
『菓子作りの家に動物は必要ない』
セボンは冷静にそう言った。
その通りである。
菓子作りの現場で動物を飼うのは、衛生的によくない。どういう生き物かもわかっていないので、セボンの言もその通りなのだが、自分を親と慕う産まれたばかりの生き物を前に、冷たいといえば冷たい。
もこもこは必死になってセボンに縋りついているというのに、撫ではするがそこまで興味を持っている様子もない。
アルバートが引き取ろうともしたが、やはり威嚇されて終わった。シーナの慰め方といい、動物好きなのか、もこもこに拒否されて落ち込んでいたのが面白い。
そんなわけで、シーナはセボンから小さな猛獣を預かることになったというわけである。
勿論、シーナにももこもこは威嚇した。
しかしセボンの『シーナのところでいい子にしてないと迎えに来ない』の言葉に、なんとこのもこもこは引き下がったのである。
不承不承というていで、セボンからシーナの腕へとのっそりと乗り移ると、きゅーんと小さく鳴いた。
言語を理解したのか、本能的にセボンの意図をくみ取ったのかはわからないが、知能はかなり高いようである。
なににしても、可愛いからなんでもいい、とシーナは思っている。
産まれる前はゾンビだのなんだの大騒ぎしてしまったが、こうして寝息を立てる白いもこもこが健やかな呼吸で上下するのを見ていたら、むくむくと庇護欲が掻き立てられるのである。
産まれた瞬間から毛が生えていたこともよかった。丸裸で皮膚が丸見えだと、やはりちょっと不気味だったろう。
もこもこは、シーナの両手にすっぽりとおさまる小ささで、長い耳も体全体もふわふわとした毛に覆われている。幼い狐や犬のような顔つきである。
そんな狐のような犬のような四足歩行に、二足歩行のひよこへの世話の焼き方が通じるかと不安ではあったが、杞憂に終わった。
柔らかすぎず適度な固さと厚みの布を用意し、シーナが抱えられるほどの籠に布を被せ、ドームのようにして暗闇を作ってやる。
もこもこは暫く籠や布の臭いを嗅いだりして逡巡していたが、やがて籠の中にそっと入っていった。
細かく震える白い睫毛が、椎奈の養鶏小屋でひしめき合っていたひよこたちを思い出させる。
「珍獣……、お前の名前はコッコだよ」
珍獣側としては実に納得のいかない理由により、シーナによる命名の儀は終了した。









「……うまいな」
良く通るハスキーな声が、感嘆を漏らす。
恐ろしいほど跳ねていた心臓が一際飛び跳ねて、シーナは安堵のあまり足元から崩れ落ちそうになった。
それを察知したセボンにすかさず腰を支えられ、王太子殿下の前で失態を侵す羽目にはならなかった。
そう、今日は王太子殿下に〝チャワンムシ〟をプレゼンするために登城したのである。
「このような種類の味わい深さは初めてかもしれん。一体なにで味付けしている?――ほう、あの東の国のオショーユを使ったのか。しかしそれだけでこんな深い味が出るものか……ああ、魚介の出汁か。例のオショーユとは相性がいいな。とても美味い」
黒髪短髪のいかつい王太子は、愛らしい装飾をなされた小さなスプーンをそっと持って何度もチャワンムシを掬っては口に運んでいる。
「ルー、君も食べてみるがいい」
そんな王太子殿下の横でにこにこと微笑んでいる王太子妃ルイ様に、小さなスプーンが向けられた。
人目も憚らずあーんをしている二人は、なるほど、国一番のおしどり夫婦と名高いだけはある。
「まあ、なんて上品なお味かしら」
王太子妃は頬に手を当てて驚愕の表情を浮かべている。
美しい茶色の巻き毛をゆるく編み込み、肩にふわふわと垂らしている。スレンダーではない。甘いものが大好きなルイ王太子妃は、シーナの二人分は横に大きかった。
対する王太子殿下ロンダムは、鍛えぬかれた肉体が分厚い服の上からでもわかるマッチョである。
大変不敬なのは承知だが、この二人は我が国の王位継承者という立場とは別に、マスコット的役割も果たされている大変貴重な存在なのである。
ロンダム殿下は王太子として立位したころからその抜群の筋肉と、王族にしては国民との距離が近いことで有名だった。要するに、堂々としたお忍びである。
うまい飯屋ができたと聞けば颯爽と城を抜け出し味見しに行き、外国から腕に自信ありの猛者が渡航すればどちらが強いか勝負をしようと決闘を申し込み、街で橋が倒壊する事故があれば我先にと駆けつけ、怪我人を救出し、端の再工事も自ら指揮をとり、それだけでは飽き足らず、その逞しい肉体をもって工夫達に交じって橋を作る――この出来事は寸劇にもされ、街でも評判の芝居として出回っている。
恐らく、シーナよりロンダム王太子殿下のほうが城下の友人が多い。
その飾らない性格と、市井で得た情報をもとに政策を練る明晰さ、そして国民のために動くことを躊躇わない行動力で、ロンダム王太子殿下は国民のヒーローなのである。