シーナに届いたという王太子妃からの手紙にあった〝甘くないプリン〟――を作るために、奮闘しているのだろう。
「味付けした具材を入れたものはどうですか?シーナ様がおっしゃった鶏肉、海老、貝に下味をつけて入れたものを、今蒸していますよ」
「いいわそれ、絶対いいわ」
恐らく、曖昧な作り方しかわかっていないシーナの断片的な言葉を拾い、パンファセがなんとか形にしていっている状態なのだろう。
セボンが菓子狂いなら、パンファセは料理馬鹿である。
シーナの適当なレシピをもとにしているとはいえ、充分楽しんでいるのはわかっている。
セボンにとって問題なのはシーナだ。
〝プリン〟の時から、明らかにシーナはおかしい。
人が変わったというわけではない。
シーナが、自分は自分だと言ったように、彼女はそのままだ。
三つ編みにした鼈甲に近い茶色の髪も、ミルクチョコレートのような瞳も、全部、彼女は彼女のままだ。
けれど料理の知識や、ちょっとした言い回しが今までの彼女とは違う。
もとから料理は好きだったが、シーナはもっぱら食べるのが専門で、自分で作ることはなかった。それは貴族令嬢という立場からもおかしなことではなく、むしろ厨房に立つほうが令嬢としてはおかしい。だから、知識もなにもあったものではないのだ。
そのはずなのに、今のシーナには最低限の調理の知識が備わっている。
それも、書物や人から学んだようなものではなく、経験から基づくような知識である。
火が強すぎれば食べ物が焦げてしまうことを知っている、調味料を入れすぎれば、味が濃くなってしまうことがわかっている、卵液に浮いた泡を潰さなくては、それが〝す〟となって入ることを知っている――。
そのどれらも、令嬢として知るはずのない知識なのである。
セボンは、じっとシーナを見つめた。
目の前でパンファセと笑いあうシーナが、セボンの知るシーナであるのか。
セボンにとって大切なのは、それだけだった。
そんなシーナがふと顔を上げて、入り口に立ったままのセボンを見る。
「セボン、おかえり」
いつもの屈託のない笑顔を浮かべて、シーナが言う。
セボンの中のもやもやとしていたなにかは、それだけで霧散した。
「できたの?チャワンムシ」
だからセボンも、シーナにいつもの笑顔を向けた。
「それがあと一息ってところまでは来てるんだけど……」
シーナはくったりと低い椅子に座った。長く伸ばしたままの三つ編みが、ともすれば床につきそうになっている。
それを掬いあげてシーナの首にくるくると回しながら、セボンは疑問を口にした。
「それより、注文を受けた六十個のプリンはどうしたの?ちゃんと届けた?」
「子ども扱いしないで。ちゃんと届けたわ」
ぶすっと頬を膨らませて、シーナはされるがまま首にくるくると三つ編みを巻かれている。
「シーナ様が直接赴かれる必要はなかったのではないですか?」
パンファセが、蒸し途中のチャワンムシを気にしながらそんなことを言う。
「私が代表だもの。商売も始めたばかりだし、きちっとお酌様のお顔を見てご挨拶しなきゃね」
これを言っているのが貴族令嬢なのだから、セボンは無表情になる。
「だからって不用心すぎるんじゃないの。結婚もしていない貴族令嬢がそう簡単に他の貴族の家を訪れたらだめだろ」
セボンが珍しく固い声を出した。
シーナは、社交界ではふしだらな女性としての噂を持っている。下世話な男達がシーナとセボンの関係を邪推して言い出したことだが、そう思っている貴族も一定数いるのだ。
シーナが結婚しないのは、いろんな男を味わうためだ、という酷い噂まである。
そんなシーナがのこのこ訪れた先で、良からぬことを考える輩がいないとも限らない。
「やーね、ちゃんと護衛もつけているし、注文を受ける相手は選んでいるわよ。受け渡しも玄関先でするし、中にはお邪魔しないわ」
シーナはシーナで考えているらしい。
良くない噂のところには出向かないし、そもそもプリンの注文を受けることもない。
やっかみを買いそうではあるが、こちらも客を選別しなくては、プリンとそれを作ったセボンの評判を落としかねない。
あまりここで強く言えば、シーナはきっと拗ねるだろう。
シーナの性格を重々承知している二人は、これ以上は言うまいと別の話題に変えた。
「それで、チャワンムシの味は?」
シーナの周りにたくさん置かれている試行錯誤の上でのチャワンムシを、セボンは一つ手に取った。
その横には、大量の卵が置いてある。しかも大小さまざまだ。卵にも向き不向きがあるかもと、多くの種類を集めたらしい。
「見た目はほんとにプリンと変わらないね。でも、魚介のいい香りがする」
「そうなの、おかず版プリンよ!」
作ったのはほぼパンファセだが、何故かシーナが自慢げに胸を張る。
そしてその横で何故か、パンファセもうれしそうな顔をしている。
皆が皆、シーナには甘い。
セボンがスプーンですくうと、中から魚介類がごろごろと出てきた。
「すごいな、お腹も膨れそうだね」
「本当はユーズの皮も入れたかったんだけど、今の時期は実はならないんですって」
「ああそれは、入れたらいいアクセントになりそう」
とはいえ、ユーズは実をつける期間が極端に短い果物である。その果肉は酸っぱくて食べれたものではないが、レモンと同様、果汁を使ったり、皮をお菓子に混ぜたりもする。
「レモンでもよかったんじゃない」
なんとなく思いついて口にすれば、シーナははっと口を開けた。
「……パンファセにも言われたのだけれど、茶碗蒸しにレモンって、合わないと思ったの」
シーナの声がどんどん小さくなる。
セボンの視線と、パンファセの苦笑にいたたまれなくなり、シーナは俯いた。
(そうだわ、私。和風の茶碗蒸しにレモンは合わないって、決めつけていたかもしれない)
「試してみた?」
「ううん……」
「試してみたら?」
優し気なセボンの言葉にそっと顔を上げると、まるでしょうのない子供でも見るような眼差しとぶつかってしまった。
その顔に何も言えなくなり、シーナは素直に頷く。
椎奈の頃の固定概念にとらわれて、試行錯誤する余地すらなくしていたかもしれない。
「パンファセ、ごめんね」
「いいえ、シーナ様。このパンファセ、レオパルド家に仕えて何年と経ちますが、シーナ様とこうして一緒にお料理ができる日が来るなんて思ってもみませんでした。今日一日、とっても楽しかったのですよ」
「パンファセ……」
涙ぐむシーナと微笑むパンファセをよそに、セボンはチャワンムシを完食した。
「美味しかったけど、味が単調」
「そうなの、そこが問題なのよ」
茶碗蒸しとしては、食べられない味ではないのだが、王太子妃に献上するものとしては完成度が低い。
「……さっき言ってた、大豆で作られたオショーユなら、王城の食糧庫にあるよ」
シーナがうんうんと唸っていると、セボンがなんとはなしにそんなことを話し出した。
「最近、東の島国の商人が訪れて売り込んだらしいけど、こっちの料理との相性がよくないとかで輸入を検討してるって聞いた。でも、大豆を原料としてかなり凝った製法で作られたものだから、王は興味を持ったみたいだね。今、その調味料を使って料理人達にいろいろさせてるって聞いた。その間、食糧庫に保管してあるって」
シーナは、どことも知れないところを見ながら訥々と話すセボンをじっと見つめた。
「この話をしてたのはジャイスだよ。ジャイスにお願いすれば、食糧庫くらいなら入らせてもらえるんじゃない?事前申請と検査はあるだろうけど。シーナは一応、レオパルド家の娘だし」
ちらり、と涼やかな青色の瞳がシーナを流し見た。
それを受けて、シーナはごくりと唾を飲み込む。
「まだ市場に出回っていない異国の調味料のことを、君がどうして知っているかは詮索しないであげる」
青ざめるシーナと首を傾げるパンファセを前に、セボンが穏やかに微笑んだ。
「でも食糧庫に行くときは、僕も一緒に連れて行ってね」
(どうしてこうなったのか――)
この言葉を、シーナは今朝から何十回と心の中で唱えていた。
今シーナは王城の中にいる。
目の前には食糧庫の扉があり、シーナの前には食糧庫の管理を行っているジャイス、後ろには興味本位でついてきたセボン、そしてなぜか、アルバートが控えている。
「……食糧庫を見学したいなどと、よく許可が下りたな」
本来ならばその許可を与える側のはずのジャイスが驚いている。
この王城食糧庫ツアーは、セボンが王太子妃へと手紙を書き、王太子妃の名のもとにこうして実現した。
「さすがは王太子お墨付きの菓子職人ですね」
のんびりと言うのはアルバートである。
彼はなぜかこの王城食糧庫ツアーが行われると聞きつけ、こうして直前に駆けつけてきたのだ。
食糧庫は王族の口に入るものが納められている場所――怪しい真似をしないか、監視のつもりなのかもしれない。
(私はお醤油が手に入ればそれでいいのだけど)
セボンから聞いた〝オショーユ〟が、本当にお醤油なのかもわからない。
東の国は、言語が違いすぎてこちらでは大陸名もはっきり認識されないような遠い国だ。海に囲まれた小さな島国で、資源が豊富だと聞く。最近航路を開いたばかりで、アルトリアとの国交もまだ始まったばかりなのである。
「今回のこの見学にあたり、私が許可したものなら一人に一つ、持ち帰って良いものとされている。気になるものがあれば、俺に言え」
ジャイスの尊大な態度はいつものことなので、シーナもセボンもアルバートも黙って食糧庫の扉が明けられることを待った。
重く重厚な扉が明けられると、中からはひんやりとした空気が流れ出てきた。
ジャイスが先に入り、灯りをともす。
灯りに照らされた室内は思った以上に広く、密閉性を高めるためだろう、窓が一つもない。床には地下に続く扉つきの階段があり、その下にはきっと氷室が広がっているのだろう。この部屋のひんやりとした空気も、その閉じられらた扉の向こう側から流れてきているようだった。
面白いのは、壁も天井も床も、全て石で作られているところだ。
一歩部屋の外に出れば絢爛な王城だというのに、この部屋はとても無骨な造りになっている。石造りなのは、冷気を逃がさないためのものだろう。もともと夏の時間が短いアルトリアでは、この造りで十分室温を低く保つことができる。
その石畳の上には、様々な食材や調味料が並べられた頑丈そうな木棚と、いくつもの大きな樽が並んでいる。中は小麦や塩などだろう。
王城で働く人々へと提供される料理の食材庫はこことはまた別のところにあるので、ここに置かれたものは全て厳選された一級品だということだ。
シーナは興味深げに、見たことも読めもしない言葉が書かれた箱や瓶を眺める。
(この中にお醤油があれば――)
とはいえ、もし目的の〝オショーユ〟がお醤油ではなかった場合、近いものがないかここで探したいところである。
(味見ってさせてもらえるのかな、させてもらえないよなあ……)
物珍しい品々に目を走らせながら悩んでいるシーナの目に、一際存在感を放つものが入ってきた。
「うわ、黒い卵」
棚の丁度真ん中に置かれたそれは、椎奈のころに動物園で見たダチョウの卵くらいのサイズで、なかなかに大きい。くるりと円になった麻縄の上に乗せられ鎮座している様は、食材というにはどこか異様だ。
「ああ、それは森の奥地で見つかった珍しい卵だ。色んな学者に話を聞いたそうだが、それが一体何の卵なのかははっきりわからなかったらしい」
「そんなものをこんな食糧庫に入れてたらだめでしょ」
ジャイスの説明に、シーナは思わず素の言葉で突っ込んでしまった。
そんな貴重そうなものを、食材と一緒に保管するとはどういうことだ。
「その卵が発見された場所が、この食糧庫と同じくらいの温度だったらしい。そのため、中に何が入っているかはわからないが、とりあえず元あった環境と同じような条件で保管しているというわけだ」
とジャイスは言うが。
「もっと他に方法があったんじゃないかなあ」
どう考えても、この卵にさして興味が向けられなかっただけだろう。


