「シーナ嬢の兄上にはいつもお世話になっているのです。家庭の事情で時季外れな時期にこちらへと戻ってきた私を、ジャイス殿は快く受け入れてくださいました」
にこにこと笑みを受けべて身内を褒めてくるアルバートに、シーナも簡単な挨拶をしてこの場を去ることができなくなってしまった。
「兄とアルバート様は違う部署にお勤めのものと思っておりましたが……、そのように仰っていただけて妹としても鼻が高いですわ」
あの兄を褒められたからと全く鼻は高くならないが、社交辞令の飛び交う夜会である。素直にありがたがっておく。兄のあの無神経ともとれるこだわりのなさが、人を救うこともあるのだと知っていた。
ジャイスは食糧庫担当のしがない中流貴族だが、アルバートはエリート街道まっしぐらの王太子肝入りの輸出先を増やす公約を担う交易関係の部署だったはずだ。
「彼の部署と私の部署とは、仕事柄、連絡を密に取り合う必要のある場所なのです。その関係で、彼とは懇意にさせていただいているんですよ」
その懇意になった末に、嫁ぎ遅れの妹をパーティーに招かねばならなくなったのだからご愁傷様である。折角の社交界デビューのパーティーにケチがついてしまった。
「そのご縁とはいえ、わたくしのようなものをこのような華やかな場に呼んでいただき、嬉しい限りですわ。アルバート様もどうぞ、セボンのプリンを楽しまれてくださいませ」
お前とはこれでサヨナラだと言わんばかりににっこり微笑んでみたが、アルバートは退かなかった。
シーナも顔負けの笑みを浮かべ、さり気なく人々の流れからシーナをテラスへと連れ出した。途中、ホールを練り歩いていた給仕からワインを受け取る。
テラスへ出ると、美しい庭園が目の前に広がっていた。
広大な敷地に惜しげもなく作られた庭園は、造形的というよりは自然的なものである。
近くに植えられているレモンの木から、清々しい青い香りが風に乗って流れてきた。
「いいお庭ですね」
「そうでしょう。母の自慢なのです」
そんな穏やかな会話をしながら、ワインに舌鼓を打つ。


――なんだこの流れは。
シーナは涼しい顔を浮かべながらも、揺れるワインの水面をじっと見つめて困り果てていた。
社交界デビューしたばかりの頃、そういえばこうして男性にテラスに誘われたことが何度かあったな、と思い出した。ここ最近経験がなさ過ぎて、こういったものにもすっかり疎くなっている。
恐らく、人目を気にしてのことだろう。
麗しく歳若い令嬢を差し置いて嫁ぎ遅れと話しているとあっては、勘違いされることもあるだろうから。
(それならお喋りをやめて、さっさとホールに戻ればいいのに)
「あのプリンというお菓子は素晴らしいですね。パーティー前の試食でいただきましたが、初めて味わう美味しさに驚きました」
そうだろうそうだろう。あのプリンは、本当においしいのだ。
我が子のようなプリンを褒められて、シーナは顔が緩むのを止められなかった。
プリンを通じて、〝お兄ちゃん〟とセボンを褒められているような気分になったからだ。
「そのときにお話をお伺いしたのですが、あのプリンは、シーナ嬢の発案だとか。私は長く外国におりましたが、あのようなお菓子は見たことも聞いたこともありません。一体どのようにして考え付いたのですか?」
前世の記憶をもとに作りました、とはさすがに言えないので、セボンを納得させたことと同じように話すことにした――セボンが本当に納得しているかどうかは別として。
「家に昔からある古い絵本に載っていた架空のお菓子ですの。小さいころからどうしても食べてみたくて、セボンにお願いして、実際に作ってもらったのですわ」
著者を答えよと言われてはどうしようもないが、そこは幼いころに呼んだ絵本ですので、とでも言って乗り切ろうと思った。
「それにしても完成度が高い。菓子狂いのセボンの名前は伊達ではありませんね」
アルバートが穏やかに笑った。
〝菓子狂いのセボン〟は、セボンの端麗な容姿に嫉妬した男たちが呼び始めた皮肉なのだが、彼が言うと嫌味に聞こえない。全くそういう意図で発していないからだろう。
シーナは優秀な幼馴染が認められたことが嬉しくなって、つい顔を緩めてしまった。
「そうなのです、お菓子のことでセボンの横に出る者はおりませんの」
さも自分の手柄のように胸を張るシーナに、アルバートは面食らったようだった。
「本当に仲がよろしいのですね」
「幼い頃から共に暮らしてきましたので」
料理長のパンファセとセボンのいるところは、シーナにとって憩いの場だった。
貴族令嬢としての勉強が嫌で、授業が終わる度にパンファセとセボンのところへ走った。
そうするとパンファセが頭を撫でてくれて、セボンが焼きあがったばかりの小さな焼き菓子をくれるのだ。
それを食べて、また勉強に励む、というのが一日のルーティンと化していた。
両親も、シーナがそれで頑張るならと黙認してくれていたので、良く人目もはばからず廊下を全速力で走り、厨房に飛び込んだものである。
「セボン殿が作ってくださったプリンは、王太子妃のルイ様も気に入られていましたよ」
アルバートからもたらされた情報に、シーナは心躍った。
(これで噂が噂を呼び、プリンの需要が増えたら万々歳ね)
今のところ、流通が現代程発達していないこの世界でプリン自体を販売するよりは、レシピを売ったほうが効率が良いと考えているのだが、それだと長期的な収入が望めない。
貴族界は飽きっぽいのだ。
もてはやし群がるのは最初だけで、すぐに飽きてしまう。
(貴族へのパフォーマンスをもう少し徹底して、需要が見込めなくなったら市井で販売するとか?)
アルバートの前だということも忘れてうんうんと考えこみ始めたシーナを、聞きなれた声が呼んだ。
「シーナ。ジャイスが呼んでる」
セボンである。
あの人々の群れの中からよく抜け出せたものだ。
「今行くわ。それではアルバート様、本日はお招きいただいてありがとうございました」
シーナはアルバートへと向き直り、淑女の礼をしてその前から去った。
ホールに戻る際、飲みかけのワインをセボンに押し付けて。
取り残された男二人は、暫し無言で、そのワインを見つめる。
レモンの香りに交じって、シーナの香水の香りが風に飛ばされていった。
「君のシーナ嬢は自由な方だね」
そう声を掛けたアルバートに、セボンはワインから顔を上げた。
その彫刻めいた貌で、微笑んでいるアルバートを無表情に見つめる。
そうして暫し見つめ合い、セボンは口許に小さく笑みを浮かべてテラスから去った。
戻り際、先ほどのシーナの飲みかけのワインを飲み干しながら。

王太子妃から直々に、相談事がある――と手紙をもらったのは、その二週間後のことだった。



「やばいわ」
「やばいですな」
思わず今の心境を口にしてしまったシーナに、息を切らせたパンファセが同意する。
周囲には五十を数えるプリンが並んでいる。
それら全て、パンファセとシーナが作ったものである。
アルバートのパーティー以来、プリンの受注がすごいことになっている。
最初はセボンも手伝ってくれていたのだが、彼のほうは本業の菓子作りが忙しくなってきて、早々に戦線離脱した。プリンの作り方については、セボンに徹底されたので味はなんとか美味しさをキープしている。
結局、レシピを売る売らないを決める前に、多くの貴族から手紙が届いた。
〝あのプリンを我が家でもぜひ披露してほしい〟
〝今度のお茶会で、ぜひ手土産として持っていきたい〟
などなど。
そのほとんどがアルバートのパーティーに来ていた貴族たちだったが、中には出席者から話を聞いたのか、あのパーティーには来ていなかった者からも手紙が届いていた。
そういうわけで、手が空いたパンファセを巻き込んでプリン作りと相成ったのである。]
今はセボンの味に近いものが作れるようになったが、慣れるまではひどかった。
カラメルソースが焦げて、いざ容器に移そうと思っても鍋の底にくっついたまま流れてこない。蒸すときに火が強すぎてぼっそぼその触感になり、口どけなんて夢のまた夢のような出来になった。いちいち重い鍋の蓋を持ち上げるのすら大変だった。
アルミホイルが欲しい!電子レンジが欲しい!なんならコンビニが欲しい!と何度なったことか――。
とはいえ、今日の受注分六十個まであと少しである。
ここまで作り上げた自分もパンファセも、恐ろしいくらい偉い。偉いに決まっている。

「そういえばシーナ様、王太子妃殿下から、お手紙が届いたそうですが」
パンファセが思い出したように口にしたそれに、完成したプリンを氷室に移していたシーナはぎくりとなった。
「なんて書いてあったのですか?」
パンファセは残りのプリンを蒸しながら、興味津々で聞いてくる。
このレオパルド家に王家からの書状が届くなど、早々ないことである。
届いたときには屋敷中が大騒ぎとなったため、シーナに王太子妃から手紙が来たことは、全員が知ることとなったのだ。
「……甘くないプリンを作ってほしいって言われたのよ」
シーナはぼそりと、淀んだ声を出した。
「甘くない、とは」
パンファセはピンとこない様子で復唱する。
甘くないプリン――それは果たしてプリンと言えるのだろうか?
「いいこと、パンファセ。このプリンはね、菓子狂いのセボンがいたから完成したのよ」
なにやらどす黒いオーラを纏いだしたシーナに、パンファセはこくこくと頷くしかない。
「それが、〝甘くないプリン?ならお菓子じゃないね〟って、あの子、私を見捨てたのよ……!」
語尾のあたりで、持っていた卵の殻をぐしゃりと握り潰したシーナに、パンファセはひっと悲鳴を上げた。
「セボンなしに甘くないプリンなんて作れるわけないじゃない!甘くないプリン!そんなの茶碗蒸しよ!プリンより難易度高そうな茶碗蒸しを!私一人でどうやって作ればいいの!!」
シーナ、魂の叫びであった。
「折角商売も軌道に乗ってきたのに、いきなりこんな難題を突き付けるなんて神様はひどいわ……」
握り潰した殻が痛かったのか、シーナは涙目で粉々になった殻を水で洗い流している。
「なるほど、うちの愚息は、お菓子にしか興味がございませんもんなあ……」
シーナは怒っているわけではなく、単純に焦っているのである。
焦ってはいるが、自身を完全な戦力外としてとらえているあたり冷静に物事を考えている。
「それで、先ほどシーナ様がおっしゃったチャワンムシとは、一体なんなのですか?」
「え?」
パンファセのにこにとした笑顔に、シーナは涙目で顔を向けた。
「わたくし、お菓子の腕は息子には敵いませぬが、これでも料理人として身を立ててきた自負がございます。シーナ様のお力になれれば、わたくしにとってそれ以上の誉はございません」
いつもはジャムおじさんのような笑顔が、この時ばかりは渡辺謙に見えたシーナだった。



一仕事を終え、レオパルド家を訪れたセボンは父親の住処・厨房に向かっていた。
既に辺りは暗くなっており、使用人たちが火を点けて回ったランプが辺りを柔らかく照らしている。
そうしてオレンジ色の廊下を歩き続け、厨房に近づけば声が聞こえてきた。
それから、なんとも控え目だが、食欲を誘う香りも。
夕飯はとうに済んでいる時間帯だが、明日の下準備でもしているのだろうか。
「夕飯で出た魚介の出汁を使っても、やっぱり味が薄くなっちゃうわね」
プリンを作ったときと同じような形の木の器をいくつも周りに並べながら、シーナは困ったように首を傾げた。
「魚介類からとった出汁では、やはり無理がありましたかな」
「塩を足しても、やっぱりお醤油の味わいには届かなのよねえ」
「オショーユ。やはりそれがないと、チャワンムシの完成は難しいですかな……」
「でも、お醤油がどうやって作られているかなんて知らないのよね。大豆?大豆で出来ているのはわかっているのだけれど……」
二人して額を寄せ合いぶつぶつと言い合っている。
セボンはぴんと来た。