そもそも、他国に長らく入学していたレイトン侯爵家の子息の社交界デビューは通常より大幅に遅れている。帰国されてからは城の交易関係に携わる仕事に籍を置き、そろそろ仕事にも慣れ始めたということで、やっとこさお披露目の場を用意できたという噂だ。
子息は歳若いが優秀ということで、会場には彼と年の近い美しく華々しい貴族令嬢たちが集められていた。
そんな中で、二十歳を超えた嫁ぎ遅れの姿はまあ目立つのである。それゆえに、レイトン侯爵家の迎賓室のカーテンに包まるように隠れているのだ。
(時間まで、ここで隠れていられたらいいんだけど)
とはいえ、今のシーナはそう悲痛な心持ではなかった。
このパーティーに参加した意図が、兄ジャイスが思うようなものとは別にあるからだろう。
陰で散々笑われているのだ。
この場を利用するくらいは許してほしい。
「こんなところにいたのか」
自分の陰口を肴にワインをちびちび飲んでいると、視界を隠していたカーテンを勢いよく剥がされた。
こんな不躾な真似をする男は、一人しかいない。
「ジャイス兄様」
果たしてそこには、夜会服に身を包んだ長身の男が立っていた。
シーナと同じ茶色い髪を後ろに全て撫でつけ、曲線を描く額が知的さを醸し出している。しかし太い眉と鋭い眼光がとっつきにくさを強調しており、実際その性格も、〝無神経〟を絵に描いたような人物である。
「こんなところで壁の花になってどうする。さっさと男を捕まえて踊ってこい」
なんて言い草だ。
シーナの陰口を言っていた貴婦人たちのほうがよほどマナーを弁えていた。
「わたくしは踊りません」
このパーティー会場に到着する前に、はっきりと伝えたはずだがまだ納得していなかったらしい。
パーティーへは結婚相手を見繕いにいくわけではない、ダンスは誰とも踊らない、目的を達成したらすぐに帰る、と兄にはきちんと伝えていたのだが。
「パーティーに来ていて誰とも踊らずに帰ってどうする気だ。一体お前はなにをしにきた」
「お兄様、それこそわたくしのような者が誰かと踊れば、その方がわたくしの結婚相手候補だと噂が流れてしまいますわ。そうなると、ご迷惑をおかけしてしまうのはお相手のほうです」
そもそも、今のシーナと踊ってくれる男性貴族がいるとは思えない。
いたとしてもこんな嫁ぎ遅れと踊ってくれるような慈善精神に溢れた人を噂の犠牲にはしたくない。
現在のアルトリア王国社交界では圧倒的話題不足である。
現王の政権は安定しているし、後継ぎの王太子様もご成婚され、王太子妃とは仲睦まじい様子である。貴族の誰それがああだとかこうだとかと噂はあるが、どれも時間が経てば忘れ去られるようなものばかりで噂好きの貴族たちの腹を満たすようなものではない。
その噂の一部が、〝レオパルド家の嫁ぎ遅れたシーナ嬢〟なのである。
「それならば、相手が絞れないほどの相手と踊ればよかろう」
他人は他人で好き勝手言うが、兄は兄で無茶苦茶言う。
「そんな非現実的なこと仰ってないで、お姉様を探していらしたら?またお声を掛けられていらっしゃるかもしれませんよ」
義姉レイチェルは、ジャイスと結婚する前は社交界の華として有名だったのだ。なので今でも、既婚でも構わないから火遊びをしようという倫理観丸投げの貴族男性たちに声を掛けられることがしばしばあった。
「レイは今王太子妃様のお相手をしてらっしゃる。誰も話しかけるような男はいないさ」
何故か鼻を高くしてそういう兄に、シーナは目を丸くした。
「王太子様がいらっしゃってるのです?」
由緒正しいレイトン侯爵家のパーティーなので、王太子はじめ王族が出席してても不思議ではないのだが。
「いや、今回の出席は王太子妃様だけだ。アルバートは王太子と交流があってな。しかし今回、王太子様は視察で城を離れられている。名代として、王太子妃様がご出席されているというわけだ」
アルバートとは、レイトン侯爵家の後継ぎの名前だ。つまり、本日の主役である。
「それはまた好都合」
シーナは思わずそうぼそっと呟いてしまった。
ジャイスが怪訝げな顔を浮かべたが、シーナがしゃんと背筋を伸ばしたのを見て呆れた声を出した。
「お前が本気になればある程度の男なら捕まえられるだろうに」
そんなジャイスに、シーナはにっこりと微笑んだ。
「私が人たらしでいられるのは、我がレオパルド家に仕えてくれる人間が善良で優しいからですわ。私の振る舞いを許し、笑ってくれる懐の大きさがなせる業なのです。腹の中でとぐろを巻いた蛇を飼っているような男性をたらしこむなんて、私のような才ない女には無理なこと」
椎奈の記憶を思い出してこそ、心の底からそう思う。
レオパルド家では人たらしなどと言われているが、そんなものシーナのゆるーい態度を許してくれる人々の上に成り立っている評価に過ぎない。
こんな魑魅魍魎蠢く社交界で、ありのままのシーナを愛してくれるような男は存在しないだろうというのが、シーナの見解である。
そして今、椎奈とシーナが合わさって、自分が愛を返すなら、同じようにシーナを愛してくれる家族や友人だけでいいと、強く思うのだ。



「セボン」
シーナはパーティーに興じる人々の波を抜け、隣の部屋で着々と準備を進めていたセボンを呼んだ。まだぶつくさ言っていた兄は置いてきた。
セボンの後ろでは、給仕服を着た数名が忙しそうにしている。ここレイトン侯爵家の給仕達である。
セボンは王室ご用達の職人にしか着ることを許されていない調理服を着ている。勿論、王室から賜ったものだ。
現代でいうコック帽にシェフの制服のように真っ白で、その縁に濃紺の糸で刺繍がなされている。胸元に光る銅色のバッチは、王室が認めた者にしか与えられない職人としての最高の誉と言われている勲章だ。
いつもはぼさぼさの金髪の巻き毛を後ろに撫でつけ、コック帽でなんとか抑えている。
露になった輝かんばかりの額が菓子への英知を見せつけ、高い頬が凛とした雰囲気を醸し出していた。
我が幼馴染ながら、その洗練された佇まいに鼻が高い。
「準備はいい?」
「待ちくたびれた。ぷりんの味が落ちる」
テーブルにずらりと並べられたプリンを一瞥して、セボンは不満を垂れた。
「王太子妃様がいらっしゃってるの。これはもう、千載一遇のチャンスだと思わない?」
「レイトン侯爵家に繋ぎをつけた時点でわかってたことだろ」
「本当にご出席されるかは賭けだったのよ。そもそも、甘いものが苦手な王太子様じゃ、この計画は成功しないでしょう?」
アルバート氏が王太子殿下と交流があるのは既に把握済みだ。ならば、このパーティーにも出席するだろうとも踏んでいた。だが、肝は王太子殿下ではなく王太子妃である。
無類の甘いもの好きである王太子妃に、シーナとセボンで作った〝プリン〟を食べてもらうことが大前提なのだ。
きっと気に入ってくれる。
王太子妃が一言褒めれば、〝プリン〟の需要はいかほどだろう。
「そうして利益が出たら、私は家を出るわ」
シーナの爆弾発言にセボンは目を丸くした。
忙しく動き回っている使用人たちの喧騒の中で、二人だけの静寂が落ちる。
「そんなうまくいくと思う?」
セボンの、少し意地悪な瞳がシーナを見下ろしたが、シーナは笑いながら肩を竦める。
「あのプリンを作ったのは誰?私が提案して、貴方が最後まで手掛けたデザートよ?」
シーナはにっこりと、貴族令嬢然とした笑みを浮かべた。
「うまくいかないわけがないでしょ」
セボンの菓子作りの腕はこの国一番だと、他の誰でもない、シーナが一番良く知っているのだ。


会場にセボンが登場すると、令嬢たちの視線が一気に集まった。
噂ではシーナ嬢のツバメだのなんだの言われているが、その美貌は本物なのである。
ひとたびこのような場に出れば、誰もがその存在感に目を奪われる。
「本日は、我がレイトン侯爵家嫡男アルバートのために、皆さまにお集まりいただき光栄でございます。ささやかながら、おもてなしをご用意させていただきました」
レイトン侯爵がにこやかに招待客に礼を述べる。
セボンをこういった場に呼び、菓子を振る舞わせるのは貴族たちにとっての力自慢のようなものだ。王室から認定された菓子職人であるセボンを呼ぶには、莫大な予算とセボンの気まぐれに振り回される覚悟、ある程度の地位が必要だからである。なにより、セボンはその気にならなければ請け負わない。その猫のような気まぐれさがまたいいと、女性たちの間では人気らしい。
勿論、今回のこれはシーナからレイトン侯爵家に掛け合った話である。
恐らく、兄に頼まれてシーナまで招待しただろうアルバート氏に感謝の気持ちを込めて、何かお礼をさせてほしいとそれらしいことを言って、セボンをパーティーのデザート監修に据え置いたのだ。
そんなわけで、レイトン侯爵は大変満足げである。
「かの有名なセボン菓子職人が、初お披露目いたします〝プリン〟でございます。是非ご賞味くださいませ」
レイトン侯爵が言い終わるや否や、大勢の招待客がセボンのもとへと群がった。
アルトリアの貴族というものは、〝初めて〟に弱い。
彼らが流行を作るものだからというのもあるが、港町として外のものが入ってきやすい土地柄もあり、単純に新し物好きが多いのである。
セボンは与えられたいくつかのテーブルが並ぶ中央に立ち、使用人たちが運んできたプリンにカラメルを施してから招待客に配っている。
このパーティーでお披露目するにあたり、シーナのプリンはセボンによって改良された。
馬毛の濾し器を、粗い目と細い目の二種類使い分けて舌触りをさらに滑らかにし、カラメルソースにはセボンが一押しする高級砂糖とやらを使用した。そうすることで、口の中に広がる甘さがより一層上品になるという。
令嬢やご婦人方、紳士の皆様まで、セボンが美しい所作でプリンにカラメルソースを施す作業を興味津々に見つめている。
レイトン侯爵家が用意した美しいガラスの器に、これまたカラメルの色が良く映えた。
大変いい食いつきっぷりである。
その調子で味も堪能し、セボンの作ったプリンをどんどん貴族の間に広めてほしい。
そうして噂が噂を呼び、最終的にシーナかセボンのもとに受注の依頼がくればこっちのものである。
シーナはプリンに舌鼓を打ち、顔を綻ばせる人々を見てにんまりと笑った。
プリンが彼らに受け入れられたことも嬉しいが、何より兄のプリンを、セボンが作ったプリンを美味しそうに食べてくれることが、なによりも嬉しい。
(そうだろうそうだろう、美味しいだろう。セボンのプリンは、お兄ちゃんのプリンは、最高なんだから)
あまりの美味しさに衝撃を隠せないでいるらしい若い令嬢達などは、一塊になって可愛らしい声を上げている。それを聞きつけ、遠巻きに見ていた若い男性達も興味深げに集まってきた。令嬢達の黄色い声は、大変いい広告塔だ。
(たっくさん作ったから、たんとお食べ)
シーナが作ったわけではないが、そんな気持ちで見守っていると――。

「シーナ嬢」
低く落ち着いた声に名を呼ばれ、シーナはプリンから視線をそちらに向けた。
若々しい黒髪を丁寧に撫でつけ、品のいいスーツを着た男性が立っている。
穏やかな瞳はアボカドの色だ。シーナよりいくつか年上に見えるが、あまり見たことのない顔である。
(誰かしら)
招待客の誰かしらなのだろう。
「はじめまして」
シーナは内心で首を傾げながら、それなりの歳を食った令嬢として落ち着きある礼を取った。
男は少し驚いた様子だったがすぐに穏やかな笑みを取り戻し、シーナにそっと微笑んだ。
「はじめまして、シーナ嬢。このパーティーのためにセボン殿を引っ張り込んでくださってありがとうございます」
言われて、シーナは背中を向けて逃げ出しそうになる自分を必死に抑え込んだ。
この言い方――このパーティーの主役、アルバート・レイトンで間違いない。
招かれていながら主役の顔も覚えていないのかとお叱りを受けてもおかしくない大失態だ。
わかりやすく表情を硬くしたシーナに、アルバートは人好きのする笑顔を向けた。