「牛乳と卵と砂糖で作るのよ」
「なんていうお菓子?」
「……セボンは知らないかも」
「そんなものあると思う?」
それがあるのである。
「プリンっていうの。図書室の古い絵本にちらりと出てきて、食べてみたくなったのよ」
もし聞かれてもいいように、言い訳は考え済みである。
「ぷりん?初めて聞いた」
菓子狂いのセボンが虚を突かれたような顔で驚いている。
そうだろう、そうだろう。
「本当に実在するかもわからないのよ。でも食べてみたくて」
セボンの家にある冷蔵庫は、一般家庭用の冷蔵庫より三倍は大きい。中にいれる氷も大きくて、この氷もなかなかに値が張るものである。シーナはその職人用の巨大な冷蔵庫を開けて、牛乳の入った瓶を遠慮なく取り出した。
「俺が作ったらだめなの?」
いつもなら、食べたいものがあればセボンかパンファセに頼むシーナである。
そのシーナが、自ら街まで出向き、自分の手で材料を揃えようとするということは、そういうことなのかと察したのだろう。
「うん。私が作りたいの」
あの兄の作った、美味しい美味しい手作りプリン。
(例えうまくいかなくても、自分で作りたいわ)
それがあの兄への、椎奈としてのお詫びだ。
きっとたくさん心配させて、泣かせて、しんどい思いをさせただろうから。
シーナのどこか決意を込めた表情に思うところがあったのか、セボンはゆっくりと首を傾げた。
「……ここ、使う?」
そして飛び出した場所提供の有難い申し出に、シーナは食いついた。
「いいの!?」
「俺もそのぷりんとかいうのが気になるし。暫く急ぎの仕事もないから、ここの材料や器具も使っていいよ」
なんて太っ腹な提案だ。
さすが菓子以外のことには無頓着な菓子狂いセボンである。
「ありがとう!」
シーナは牛乳瓶を置いてテーブルをさっと回ると、セボンの身体にぶつかるように抱き着いた。
抱き着いてから、日本生まれの椎奈がしまったという顔をしたが、今のシーナにとってハグは大したことじゃない。
男性に抱き着くことに慣れていない椎奈を代弁するように、セボンがシーナを見つめていつものように窘めた。
「そういうの、卒業するって言ってたでしょ」
「たまにはいいのよ、たまには。嬉しいときくらい、素直に表現したいじゃない」
シーナはにやりと笑って、セボンを見上げた。
それに、こんなことよほど親しくなければしないのだ。よいではないか。
「そんなんだから、お嫁の貰い手がないんでしょ」
セボンは小さく笑って、シーナに手痛い言葉をお見舞いした。




「では、これからプリンの生成を始める」
セボンから借りた大きめのエプロンをして、シーナは両手を掲げて気合を新たに作業台へと向き合った。
「魔術の儀式でも始めるみたい」
「私にとっては魔術みたいなものよ」
生粋の貴族であるシーナは、料理なんてしたことがない。椎奈の記憶を頼りに取り組んでいくしかないのだが、とりあえず必要なものは牛乳と卵と砂糖のはずだ。
「混ぜます」
木で作られたボウルに、卵と牛乳を入れる。
ここで問題なのは、卵の数と牛乳の量である。
基本、椎奈は食べる専門で作る側ではなかった。椎奈が自分でなにかを作ろうという前に、上の兄三人が何かしら作ってくれたからだ。
当時はそうと自覚はなかったが、随分と甘やかされていたらしい。
プリンのレシピも、兄に作ってあげようと思って調べたきりで、そのあとすぐ事故を起こし、更にはこの世界に生まれ変わり、前世の記憶を思い出したのは今朝の話だ。
そんな記憶など、あってないようなものである。
「どれくらいだと思う?」
「とりあえず、作ってみたら?」
菓子狂いの鶴の一声である。
若干、幼い娘が初めて料理に挑戦するところを生暖かく見守る父親のようでもあるが。
シーナは遠慮なく、ボウルの中に卵二個と、牛乳をたっぷり注いだ。
砂糖を加え、たくさん混ぜたほうがいいのだろうとにかく混ぜる。混ぜても混ぜても、あまり混ざりきった気がしないので、腕がしびれ始めた頃に混ぜるのはやめた。
それを分厚いガラス容器に移す。これくらい分厚ければ耐熱じゃなくても行ける気がする、というシーナの謎の直感である。
ちなみにセボンは知っていて黙っているが、このガラスには貴重なスライムの体液が混ぜられていて高温でも低温でも割れることのない超高級耐熱ガラス品である。
シーナはそんな高級容器にかなり慎重に卵液を移したが、表面にぽそぽその泡ができてしまった。
(これは多分、あったらいけないやつ)
前世で兄がそんなことを言っていた気がする。地道にフォークでつぶそうとしたが全く綺麗になくならない。
仕方がないので、とりあえずこのまま作ることにした。
このガサツさと短気さが料理には向いてないことを如実に物語っていたが、幸いなことにこの場でそんなことを考えているのはセボン一人だった。
黙っているセボンに助けられて、シーナはプリン作りを続ける。
いよいよと、大鍋に少なめのお湯を沸騰させた。
このお湯に容器を入れて蒸すのだが。

「……この後どうしたらいいと思う?」
沸騰したまま容器を入れるのか?果たして火を止めてから入れたほうがいいのか?
ぐつぐつと沸き立っているお湯を前に、シーナは考え込んだ。
「火を小さくしたら。沸騰させすぎだと思う。火傷するよ」
「先生!!」
持つべきものは菓子狂いの幼馴染である。
シーナは言われた通りに、お湯に卵液の入った容器を入れた。お湯の量は容器の半分より上に来ている。丁度良いのではなかろうか。素人の勘である。
暫くじっと待ってから、表面をそっと押してみると弾力がある。ような気がする。
鍋から取り出し、作業台の上に敷いた布の上に置いて粗熱を取ることにした。確かそんなことを兄はしていた気がする。
見た目はよさげだ。粗熱の取れたそれを前に、スプーンをぎゅっと握る。
そんなシーナとプリンを、セボンはじっと見つめていた。

――結果は、大失敗だった。
スプーンを差し込んだが、あのプリンの最高触感プリっとは固まっていなかったし、でろっとしてるくせに所々には〝す〟が入っていて舌ざわりが悪く、そもそもカラメルソースなんて砂糖が固まって全然滑らかにならなかった。
「面白いね」
落ち込んでいるシーナをよそに、セボンは無表情に顔を輝かせている。
「なんにも面白くないわ」
「シーナの失敗を面白がってるわけじゃないよ」
憮然と応えるシーナを横目に、セボンは卵を手に取った。
「固まらなかったのは多分、卵に対して牛乳の量が多かったんじゃないかな。あと、混ぜたあと卵液を濾したほうが仕上がりが滑らかになるよ」
そう言ってセボンに言われた通りに、シーナは混ぜた卵液を馬毛の濾し器で濾した。
馬の毛は他の動物と違い断面が鋭角なので、裏ごし機によく使われている。
「器に移した後の気泡を消したがってたけど、こういうのは火で潰していくといい」
細長い線香のようなものの先に火をつけると、その火で器用に表面に浮いた泡を潰していく。ちなみに線香のようだと思ったのはパスタだ。こちらのパスタは圧倒的に細くて腰があるものが主流である。
「この砂糖のソース、ヘラで混ぜるとだまになりやすいから、鍋ごと揺すって溶かしてみたら」
ぎこちない手際のシーナに替わって、セボンが慣れた手つきでミルクパンを火の上で揺すると、綺麗な琥珀色のカラメルソースができた。
シーナの、自分で作りたいの言葉を尊重して、セボンは必要以上には手を出さず、細かくわかりやすいアドバイスをくれた。
お湯も多かったらしい。

そうして気が付けば、シーナの目の前に、まごうことなき美味しいプリンが鎮座していた。
黄みがかった肌色の滑らかなぷるぷると震えるプリン。手作りっぽく凹凸のできたその表面に、神の御業としか思えない文様を描いて流れ伝う煌くカラメルソース。
そっとスプーンを差し込む。
押し出されるような、けれど固いわけでもない、弱いわけでもない弾力が返ってくる。容器の底で出番を待つカラメルソースも一緒に掬いあげると、ぷるんとスプーンの上で揺れて、美しい黄みがかった乳白色のそれがきらきらと光に反射していた。
「プリンだわ」
シーナは思ったことをそのまま口にした。
見ればわかる。けれどシーナが作ったものとは、百八十度違う本物のプリンだ。
スプーンの上でふるふると震えているそれを、ゆっくりと口に運ぶ。
舌の上に、優しくて懐かしい味が広がった。
「……プリンだわ」
シーナはまたも、思ったことをそのまま口にした。
手順は同じだが、セボンは菓子職人としての長年の勘と知識とを合わせて、あっという間にプリンを作り上げてしまった。
蒸すときはお湯の温度を下げないように気を付けたり、鍋の下に布巾を敷いてその上に容器を置くことで〝す〟が入るのを防いだりと、シーナには考えもつかない手間をプラスして見事プリンを完成させた。
そうして一連の過程を見て、シーナの胸に込み上げたのは満足感というより、形容しがたい熱い想いだった。
心がとろりと溶けて、目頭が熱くなるのを堪えられない。
兄が、椎奈の兄が、これほどの手間をかけて、いつもプリンを作ってくれていたことを今更ながらに実感したのだ。
可愛がっていた鶏が死んだ日も、椎奈が一方的に兄に怒って喧嘩した日も、受験で徹夜して勉強していた日も。
自身がどんなに忙しくても、椎奈が好きだからと必ずおやつとしてプリンを用意してくれていた。
〝愛〟だ。
プリンは決して椎奈の血肉となるための栄養ではなかったが、兄によって椎奈の腹へと贈られる〝愛〟だった。
「シーナ」
セボンが驚いた顔でこちらを見ている。
それはそうだろう。
プリンの完成を前にして、まさか泣くとはシーナも予想していなかった。
「そんなにこのぷりんってお菓子が食べたかったの?もっと早くに言ってくれたら、いくらでも作ったのに」
セボンの言葉に、シーナは泣きながら笑った。
(今ここにお兄ちゃんはいないけど、同じことを言ってくれる人はいるのだわ)
それはなんて、幸せなことだろう。

「それにしても、このプリン。肥えた舌を持った貴族達も唸りそうだね」
ぱくぱくとセボンと二人で作ったプリンを食べていると、同じように味わっていたセボンがぽつりとそう漏らした。
その言葉に、シーナの中の良からぬシーナが顔を出す。
「……そう思う?」
シーナの問いかけに、セボンが美しい貌をゆっくりと傾げた。
「君はどう思うの?貴族のシーナ」
それが、セボンの答えだった。








「聞きまして?今夜の夜会、レオパルド家の例のご令嬢も招待されているとか」
「まあ、あの噂の?」
「レイトン侯爵家のご子息とはさして歳は離れていないけれど、今の今まで嫁ぎ遅れていた自分を売り込む気かしら?招待されたからと本気で招かれて来るなんて、なんて前向きな方なの」
ほほほ、と貴婦人たちの集まりの中に笑いが起きる。
貴族ゆえに決定的な言葉は使わないが、今言われたのは全て悪口である。
夜会の会場である分厚いカーテンに隠れて、シーナはふうと溜め息を吐いた。
こんなふうに言われるのはもう慣れっこである。
嫁き遅れはこうして陰口を叩かれる運命なのである。中傷の相手が、幼馴染の菓子職人と噂のある人物ならなおさらだ。
「今夜も、あの美貌の菓子狂いを連れてきているとか」
「まあ、夜会にまで?本当に仲が良ろしいこと」
会話の裏に、なんて恥知らずなのかしら、という言葉が隠れている。
セボンをこの夜会に連れてきているのは事実なので、シーナは黙ってワインを口に運んだ。
義姉レイチェルに誘われて、一度は断ったレイトン侯爵家のパーティーだったが、思うところあり参加することにしたのだ。
恐らく――というか確実に他の招待客からはいい顔はされないだろうと踏んでいたが案の定である。
ちなみに、レイトン侯爵家がどのようにお考えになってシーナを招待したかはわからない。
レイトン侯爵家の主は兄ジャイスと同じ職場に所属しているので、嫁にいけない妹を心配した兄がせめて出会いの場くらいはと泣きついたのかもしれなかった。