食文化としては、椎奈が生きていた時代と比べるとだいぶ出遅れている印象だ。
食文化の系統自体が違うので、片方に存在はしてももう片方には存在しない料理がたくさんある。
卵料理に関しては特に、おかず系は充実していてもスイーツ系は少ない気がする。
(兄ちゃんのプリンが食べたい)
あの頃の椎奈が誰一人知ることのない空の下で、シーナはもう一度、強くそう思った。











「卵、でございますか?」
レオパルド家の館に長く遣える料理人、パンファセが不思議そうに首を傾けた。
濃いめの金髪に恰幅のいい体形はいかにも気のいいおじさん風で、レオパルドの人間にいつも美味しい料理を作ってくれる腕のいい料理人である。
「そう、なんでもいいの。いつも使ってる卵が余っているなら、それを使わせてもらってもいいかしら」
卵にもいろいろ種類がある。鶏の卵もあればウズラのような小さな卵、この世界では黄身の部分が青い卵もある。この卵は始祖鳥の卵といって、大変希少価値の高いものだ。ちなみに王族も頻繁には口にできないものであり、シーナは一度も食べたことがない。
「シーナ様がお料理とは珍しい。それでしたら、あちらの冷蔵庫にございますのでいくらでもお使いください。明日の朝にはまた新しい卵が届きますからね」
この世界の冷蔵庫とは、地下深くに作られた石造りの冷たい箱のことである。人が立てるくらいの大きさがあり、大きな氷が並べられ、それで冷やしているのだ。椎奈の生きた時代でいえば、氷室のようなものである。
ちなみにこの氷は、アルトリア北側に位置するいくつもの峰を抱く雪の山・ネージから運ばれてくる。万年雪が降りしきる山で、氷には困らない。この氷を運んでくる商人は、廃業知らずと言われている。一般市民の冷蔵庫事情についてはシーナは詳しくないが、この氷室を小さな箱で作ったものを家庭に置いていると聞いたことがある。
「それとね、牛乳と砂糖も欲しいのだけれど」
「牛乳でございますか?」
ここで、気のいいパンファセの顔が曇った。
「ここにあった牛乳を、実はつい先程、倅のセボンが買い取っていってしまいまして」
聞けば、菓子に使う牛乳が尽きたとかでここにやってきたらしい。
牛乳くらい市場で買えといいたくなるが、商人から大量に買い付けているレオパルド家から買ったほうが安くつくのもわかる。事前にシーナの兄・ジャイスに許可を取ったらしいので、口を挟む余地もない。
「もう残ってないの?」
困った。できれば思い立ったが吉日。
今日、プリンを作りたいのに。
シーナのしょんぼりとした顔に、パンファセは困ったように眉を下げた。
「卵と同じ商人が運んできてくれるので、明日には届きますが、今ある分は今夜の夕飯に使おうと思っているのです」
「ちなみにメニューは?」
シーナは思わず食いついた。
パンファセの料理は一品である。兄達の料理を思い出した今、あっちは家庭の味。パンファセのそれは、洗練されたプロの味だ。
「午後からパンを焼きますので、そのパンを浸していただくシチューを作ろうと思っていますよ。シーナ様の大好きな野菜をたっぷり入れて、海老も届きましたので、それも入れようかと。それから新鮮な魚が手に入ったので、バターソテーにしましょうか」
にこにことパンファセが語る。そのすべてがシーナにとってはご馳走だ。
シーナはシチュー、ジャイスは魚のバターソテー、手作りパンはレイチェルの好物だ。この館の主要の人間全員のことを思ってくれてのメニューだとわかる。
「なんて美味しそうなの。パンファセ、貴方の料理のすべてを愛してるわ」
シーナは嬉しそうにパンファセの頬にキスをした。
パンファセはジャムおじさんのような笑顔で、それを素直に受け入れた。
社交界では嫁ぎ遅れと陰口を叩かれるシーナだが、実はレオパルド家では人たらしとして有名である。
好きなものは好きと素直に口にする。誰にでも話しかける。一人でいる人間にたかたかと近づいて、壁を突き破ったと思ったらすぐに友達になる。
身分の垣根がほとんどないシーナの態度は、使用人や出入りの商人達から絶大な人気を誇っている。今思えば、身分制度のない時代に生きた椎奈の名残なのかもしれない。
それもあって、シーナの両親であるレオパルド家の隠居夫婦は、この館にシーナを置いていったのだ。
「それならセボンのところに牛乳を取りに行くわ。もしかしたら道具もそろっているかもしれないし」
菓子職人のセボンは、その職の通りに菓子狂いである。菓子といったらもう目がない。どこのものであるかどんなものであるか、突き詰めて突き詰めて自分のものになるまで作り続け、日々万進している。その腕を買われ、最近では王城に呼ばれてその腕を貴族のご婦人方にも披露しているというのだから、シーナの幼馴染は随分と出世した様子である。
「それはセボンも喜びましょう。お嬢様に最近会っていないと、不満げでしたから」
「セボンと会うとすぐ噂が流れちゃうからあえて顔を合わさないようにしていたのよ。けれど一昨日、我慢できずに会ってしまったの」
シーナはくすくすと笑って、レオパルド家の厨房を後にした。

セボンは十六歳の時に街に出て、店を出すでもなく、居住用の部屋を借り、その部屋でひたすら菓子を作るだけの日々を送っている。
その菓子が人の噂を呼びに呼び、〝菓子狂いのセボン〟としての名を確立したのである。それが栄誉なことなのか不名誉なことなのかシーナには判断しかねるが、セボンは基本お菓子に囲まれていれば幸せそうなので、幼馴染としてそこから引っ張り出すつもりはない。
「セボン、久しぶり」
貴族令嬢然としたドレスから、街の女性が着るようなワンピースに着替えたシーナは、慣れた様子でセボンの部屋のドアをノックした。
街にはセボンと共に何度となく訪れているので、今更館から出ることに抵抗などない。
ノックはしたが、返事はない。
シーナはもう一度ノックして、そっとノブを捻った。
鍵は閉まっている。
以前、不用心なセボンが施錠せずにいたら女の子が何人か忍び込んできたことがあったので、口を酸っぱくして鍵をしろと怒ったのだが、ちゃんとそれを守っているらしい。偉いぞ。
「セボン、開けるよ」
ちなみにシーナは合鍵を所持している。勿論、家主のセボンから賜ったものである。
いつでもくれば、だそうだ。
そんな気の置けない間柄だからこそ妙な噂が立ってしまうというのもわかっているのだが、今更距離を置くような関係でもないので困ったものである。
ドアを開けると、中は薄暗かった。
しかし人の気配はする。
しかもしゃりしゃりと妙な音までする。
玄関は整理されていた。二つ持っている靴はきちんと並べられ、玄関のタイルはきれいに掃かれている。外套は壁に掛けられているし、装飾の美しい黒と金の杖も壁にきちんと立てかけられている。
この杖は、王太子殿下から信頼の証としてセボンが賜ったものだ。セボンの作った菓子を、甘いものが大好きな王太子妃が大層喜んだという理由で贈られたものである。
これからも王太子妃のために励めよ、というわけだ。なかなかに栄誉なことだが、セボンとしてはあまり興味をそそられるものではなく、賜った栄誉ある杖もこうして玄関に置かれている。
普通なら、王族からの贈り物として丁重に保管されるべきものだが、折角いいものなんだから、俺の腰が曲がってから杖として使う、とセボンは言っていた。
玄関を抜けると、大きな一部屋に出る。
部屋の隅には大小様々な書物がたくさん重ねられ、いくつかのメモが壁に貼り付けてある。その横に万年床のベッドから置かれ、小さな一人掛けソファと丸テーブル。更にその奥は白く透け感のあるカーテンで仕切ってある。向こう側は厨房だ。大きな作業台が置かれていて、セボンが菓子を研究し、作る場所。
「いいにおいがする」
シーナが白いカーテンを開けると、目当ての人物はそこにいた。
しゃりしゃりという音は、氷を削っていた音だったらしい。専用のノミで、一塊の氷をまるで軽やかな羽根のように削っている。

「シーナ。久しぶり」
セボンは顔も上げずにそう言った。
横顔だけでも彫刻と見まごうような美貌である。通った鼻筋に、長い睫毛が下向きに傾くさまは女神のようだ。ふわふわしたひよこの産毛のような金髪は後ろで簡単にまとめられていて、その金髪の向こうには、焦がしたキャラメルのような瞳が透けている。
菓子職人というより舞台役者のような容貌だが、本人はいたって無頓着である。
「一昨日も会ったけどね。ところでこの匂い、ジャム?」
セボンの対人関係に関してのいい加減さは今に始まったことではない。
シーナは適当に流して、甘酸っぱい香りのする鍋をそっと覗き込んだ。
苺に似た小さな赤い実が潰れて、砂糖と一緒にくつくつと煮詰められている。
「シロップ?まさかその氷に掛けて食べるの?かき氷じゃん」
シーナは思わず前世の頃のような言葉を発してしまったが、セボンは気にした様子はない。
「よくわかったね。そうだよ、ミーアメ湖の氷を美味しく食べれないかなと思って」
ミーアメ湖は、雪山ネージの麓にはるそれはそれは美しい湖だ。その湖の氷が解けるのは、短い夏の間だけ。その間だけ透けるような湖面に美しい緑の影が映りこむ。
そのミーアメ湖に張った分厚い氷もまた、人々の生活に活用されている。
透明で美しい氷の羽に、とろりとした赤いジャムが乗せられた。
まだあたたかいジャムに、氷の羽がゆっくりと溶けていった。
「食べたい」
「勿論」
言われてすぐ、差し出されたスプーンで口に運んだ。
しゅるりと溶けた氷と、甘酸っぱいジャムの甘さと香りが一気に口の中を支配する。
溶ける前に全て食べ切らなくてはと、ぱくぱくと口に運んではセボンにも差し出す。何口か食べたところでレシピを見直すためだろう、考え込むように椅子に座ったので、あとは全て頂くことにした。
冷たくて軽やかな氷の透明さと、ジャムの主張する赤い味が堪らない。
全部食べて、器に残った溶けた氷とジャムが混ざったジュースまで飲み干したところで、セボンが口を開いた。
「どう?」
「最高」
「あえて言うと?」
「氷の量がもっと欲しいかも。ジャムの味が氷の美味しさを殺しちゃってるわ」
シーナとセボンのこのやりとはお約束だ。
セボンの作ったいつもいつも完璧なお菓子にシーナがあえてケチをつけるのが、二人の仲なのである。
セボンはかりかりと分厚いメモに何かを書き足して、ぱっと顔を上げた。
今にも香ばしい香りがしてきそうなキャラメルの瞳が、じっとシーナを見つめる。
「それで、かき氷って、何?今日のシーナは俺が知ってるシーナじゃないみたい」
鋭い。
シーナは特に狼狽えることなく、セボンを見つめ返した。
シーナはシーナだが、椎奈の記憶を持っているシーナは、きっと今までのシーナではないのだろう。
そしてセボンは、それを見抜くだろうと思っていた。
「聞かないでほしいって言ったら聞かないでくれる?」
なので馬鹿正直にそう言ってみた。
「……シーナはシーナ?」
お菓子に向ける情熱的な瞳とは違って、今のセボンの瞳は静かだ。
じっと、真実を見極めようとしているのか、見定めようとしているのか。
「私は私よ」
シーナは自信をもって答えた。
「それならいい」
セボンのそういうところが、シーナは好きだ。
恐らく普通の人間では放っておけないような違和感を、セボンは興味もなさそうに切り捨てていつものようにシーナの好きなジンジャークッキーと紅茶を振舞ってくれた。
一昨日に会ったからと、話題がないわけではない。
昨日の朝生まれた子牛の話や、新しく街にできた菓子店の話、王太子夫婦のご様子や、今朝の朝食の話。
セボンはあまり喋るほうではないが、シーナが相手では別だ。
幼馴染の気安さで、人並みに喋る。
「そうだわ、牛乳よ」
なので、シーナが真の目的を思い出したころには昼を過ぎていた。
セボンが作ってくれた、簡単だが最高に美味なランチを食べ終えて、シーナはやっと立ち上がった。
「牛乳?シーナが使うの?」
「そうなの、作ってみたいお菓子があって」
「どんな?」