案の定、長兄が眉尻を吊り上げた。
〝デザートがあるから椎奈は好き嫌いも頑張って夕飯を食べるんだろうが〟
〝ちょっと二人とも、ここで喧嘩してどうするの。椎奈はみんなの作った料理が大好きなんだから、みんなで仲良く食べればいいじゃない〟
中学生の椎奈に対して、まるで子供のような掛け合いをする上二人の兄を、末の兄が宥めている。
そんな三人に囲まれて、思春期真っただ中だった椎奈はぶすくれていた。
事の顛末は、椎奈の甘酸っぱい失恋が三人の兄にばれてしまったことにある。
三人は椎奈を慰めようと、三者三様、狭い台所でひしめき合って自分の得意料理を作ったのである。いや、訂正。下の兄だけは、広い庭でのんびりとサーモンをスモークしていた。
素直にありがとうとも言えず、胸がむずむずするような照れくささが邪魔して態度には出せなかったが、嬉しかった。
兄達が妹の自分を可愛がってくれる事実が、椎奈の心を満たしていた。
そのときも、窓の外で桜が満開だったのを覚えている――。
「おにいちゃん、ごめんなさい。一人で逝ってごめんね。ごめんなさい……」
込み上げたものは、椎奈の懺悔だった。
愛されていた。両親にも、兄達にも、これ以上ないほどの愛情を注いでもらった。
そして彼らが、椎奈の死をどのように受け取ったのか、椎奈は知らない。
考えても仕方がないと考えないようにしていた小さな疵が、桜の花びらに撫でられて見事に露呈してしまった。
「シーナ、シーナ」
蹲ってまるで子供のように泣きじゃくるシーナに、セボンの手が差し出される。
大きくて冷たい、いつだってシーナを慰めてくれる手だ。
「僕のシーナは一体どうしちゃったの」
セボンはそんなことを言いながら、顔も上げられないシーナの頭を優しく撫で続けてくれる。
この手まで、失いたくないと思ってしまった。
「セボン」
涙に濡れたみっともない声で、シーナはその名前を呼んだ。
それを何故か満足そうに受けながら、セボンはうん、と小さく囁く。
「私、セボンが知ってる今までのシーナじゃない。でもシーナなの。セボンとこれからも一緒にいられる私でいたい。意味不明なこと言ってるってわかってる。でも、だから、お願い。お願いだから、」
私のありのままを受け入れて。
椎奈の記憶が蘇ったとき、自分の変質を一番に恐れたのはシーナだ。
シーナはシーナだけれど、今はもう、〝アルトリアだけのシーナ〟ではない。
もし、椎奈であるシーナを受け入れてもらえなかったら?
――それはとても、恐ろしくて悲しいことだ。
「〝君は誰なの〟なんて、言わないで……」
あの夜のセボンの一言が、シーナにとってどれほど残酷で攻撃力が高くて致命傷を与えたか。
シーナはずっと怖かった。
それならばプリンを作らずにアルトリアのシーナのままでいればよかったのに、それでも椎奈も大切で。
椎奈が大切にしていた家族の、夢のような片鱗を、少しでも形にしたかった。
「シーナ、顔を上げて僕を見て」
「いや」
こんな涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔なんか、見せられるわけがない。
「見せろってば」
しかしセボンは容赦なく、シーナの頭を両手で抱えて男の力で持ち上げた。
「きったない」
自分の頭を鷲掴む彫刻のような男に言われても、わかってるわ、としか返せない。
「シーナがシーナであること、僕は知ってるよ。シーナじゃない部分だってあるけど、シーナの部分だってあるんだから、別人だなんて思わない。ただ、僕の知らないところでシーナが変わって、僕に理解できないことで泣くことが許せないだけ」
なんだそれ。
きっととても嬉しいことを言われているだろうに、シーナは鼻水を垂らした自分の顔が太陽のもとに晒されていることに冷静でいられない。
「う、うん……」
結局、ぱっとしない相槌を打って、何故か不満げなセボンにほっぺたをつままれてしまった。
つままれたまま指が離されないので困ったようにセボンを見上げていると、今度はもう片方の頬もつままれてしまった。理不尽である。
「あの」
勇気を出して、謎の行動に出る幼馴染に声を掛けてみた。
「なに」
無表情のくせにむすっとした声が返ってくる。さすがパティシエ。器用な男である。
青く大きな瞳に、両頬をつままれた不細工なシーナが映っている。
(……セボンはずっと、こんなふうに見ててくれたんだ)
そう思うと、つままれたほっぺたも鼻水も、どうでもよくなってしまった。
「セボン、ありがとう」
今はまだ、こんな言葉しか出てこないけれど。
「シーナを愛してくれて、ありがとう」
その温かさが、どれだけ椎奈とシーナを救っただろう。
じっとシーナが見つめると、セボンは面食らったような顔をした。
「……愛してなんかないし」
言いながら、顔をふいっと逸らし、頬を赤くする。
まさかのここで、突然のツンデレ化である。
「愛してるでしょ?」
逸らされた顔を追って、思わず悪乗りしてしまう。
「めっちゃ愛しちゃってるんでしょ?私はセボンの、大切な幼馴染だもんね?」
満面の笑みで調子に乗ったシーナの頭上に、豪快な一撃が振り降ろされた瞬間だった。
■
結果的に、採取できたスモークチップは、ヒッコリー、クルミ、桜の三種類になった。
コッコとしては、シーナが香りの強い木を探しているということを察知して、嗅覚を頼りに桜の木まで誘導してくれたらしい。
なんてできた珍獣なのだ。
ちなみにサクラはアルトリアでは未確認の品種だったため、ルイが直々にコッコを表彰すると息巻いているらしい。どこまでもできた珍獣である。
採ってきた木々の皮と枝は数日かけて乾燥させた。
三番目の兄がスモークチップの手作りにも手を出していたのだが、十分に乾燥させないと青臭くなるとか言っていた気がする。
その後、森の入り口に住んでいる樵に仕事として乾燥した皮と枝を小さく砕いてもらった。
ちなみにシーナもナイフを使って自分で挑戦はしてみたのだが、指が全てなくなりそうなのでやめた。
樵のもとから返ってきたまごうとこなきスモークチップを使い、早速セイネ達と燻製卵を作ることにした。
いや、卵だけではない。噂を聞きつけたロンダム王太子により、街の食材が届けられたのである。
内臓を抜かれた鮭のような魚に、大きな貝、厚切りベーコンにシーナの顔程もあるソーセージ、とうもろこし、更には巨大なチーズ。
「これだけあれば、シュクルさんの気に入るものも一つはあるでしょ」
王太子様様である。面白いから存分にうまいものを作れ、との命も受けている。
シーナは早速、セイネ達と共に食材を切り分け、それぞれのチップを入れた燻製器の中に
放り込んだ。ちなみにこの燻製器も、樵に頼んで作ってもらったものである。
一番簡単な燻製器は、ステンレスのボウルをカポッと上にかぶせる方法があるのだが、残念なことにここアルトリアにはステンレスは存在しないので、三兄がいそいそと作り上げたものを参考に、今が閑散期で暇しかしていない樵に作ってもらったのである。
シーナは燻製器を手に入れられる。樵は収入のない今の時期に収入を得られるという、ウィンウィンの関係なのである。
更に付け加えると、三つの燻製器には色が塗られている。
サクラのチップ用には桃色、クルミには橙、ヒッコリーには緑。
これは、アンジー率いる孤児院の子供達にお願いした。
この燻製料理が完成した暁には、この孤児院の目玉商品としてレシピを譲るつもりである。そうすれば、それなりの収入が得られるのではないかという、シーナの浅知恵だ。
きっとこれもあって、ロンダム王太子は食材を贈ってくれたのである。孤児院の環境改善・有効活用は、アン王太子妃の肝入りの政策だから。
様々な大人の、様々な事情によってシーナは助力を得、ついに三兄の得意料理にまで手を出すことができた。
(なんだろうな、この感覚。私今、第二の人生を歩んでる感ある……)
転機といえば、椎奈の記憶だ。
これまでのシーナの人生はもちろん大切なものだが、今、椎奈を得て、それ以上のものを活かして生きることができている気がする。
それぞれ孤児院の中庭で、一定の距離をもってもくもくと美味しい食材が燻製されているだろう箱を、シーナとセイネはぼんやりと眺めていた。
「セイネさんは、シュクレさんのどこが好きなんです?」
穏やかな時間をぶち破ったのは、コイバナ大好き椎奈のシーナである。
尋ねた途端、真っ赤になってしごろもどろになったセイネを、かわいい、と眺めつつ、シーナは返事を待った。
少しそばかすの浮いた、細くて今にも折れそうなセイネは、長く赤い髪を三つ編みに結って、大切に伸ばしている。
いつかこの髪を売って、アンジーの人生の足しになるものを買おうと思っているのだと、シスター達から聞いた。
「……お仕事が終わってアンジーとおうちに帰っているときにね、こんばんはって声を掛けてくれたの。今日は月が明るいから、お散歩ですかっ、て」
確かにあの青年なら、ほがらかに声を掛けてきそうである。
「お散歩じゃなくて、お仕事が終わったので今から帰るところなんですよって伝えたら、やあそれは素晴らしい。君は大好きなお母さんと、いつもこんな素敵な散歩をしてるんだねって、アンジーの頭を撫でてくれて」
なんだそれは、映画かなにかか?
セイネの肉のない頬が、赤く染まっている。
なんて素敵な色だろうと、シーナは訳もなく愛しくなってしまった。
「私、そのときね、この孤児院とは違う仕事に就いていて、帰りが毎日遅いのがずっと気になってたの。もっと早くにお仕事が終わればアンジーの大好物を毎日だって作ってあげられるのに。絵本をもう一冊増やして読んであげられるのに。もう少しだけ、自分の時間も長く作れるのにって」
子供を一人で育てていく大変さなどシーナにはわからない。何より貴族の出であるシーナにとって、セイネのそれはきっと未知の人生だ。
「でも、その時アンジーがね、〝そうでしょ、私、ママとこうして手を繋いで夜の道をお散歩するのが大好きなの〟って、教えてくれたの。私、ずっと悩んでいて、アンジーのその言葉で、初対面のシュクレさんの前で泣いてしまったのよ」
余程思いつめていたのだろう。
気弱そうに見えるセイネは、実はとても頑固者で、人前では決して泣かないのだとシスター達から聞いた。
「そしたらシュクレさんね、無言のまま走り去っちゃって、私、なにか失礼なことしちゃったかしらって心配になったのだけど、すぐに戻ってきてくれてね、真っ白のカップを二つ、あちっあちって言いながら、持ってきてくれたの」
その真っ白のカップには、マシュマロの浮いたホットココアが入っていたらしい。
「可笑しいのがね、それ、そのあたりのおうちの人に作ってもらったって言うの。全然知らないおうちをノックして、泣いている女性と、その娘さんがいるので、何か喜びそうなものを作ってくれませんかって」
思い出しながら、セイネが可笑しそうに笑っている。
シーナは笑うどころかドン引きだが、セイネが楽しそうにしているのであえてそれを口にはしなかった。
「……見ず知らずの私なんかのために、そこまでしてくれる人がいるんだわって思った時に、夫が亡くなってからずっと張りつめていた糸がゆっくりと解けていって……。私、あんなにおいしくて幸せなココアは、きっとこの先、もう二度と飲めないんだろうなって思ったの」
セイネの瞳には、いつの間にか涙が浮かんでいた。
「私、きっと死ぬときに、あのマシュマロが浮いたココアの味を思い出すんだわ」
そう笑ったセイネの横顔の美しさを、シーナもきっと忘れないと思った。
(いいな、そうして誰かの心に棲みつく、美味しいお菓子を作れたら、それはきっと、とても幸福なことだ)
シーナとセボンは、お菓子を作るまではできる。けれど、それに物語をつけてくれるのは、そのお菓子を買って行ってくれるお客様自身だ。
シーナの手から誰かの手に渡って、そうして食べ尽くされて、一つの物語となって完結する。
それはなんて、素晴らしく、甘くておいしい営みだろう。


