「ずっと僕のお菓子を食べる専門だったのに、急にプリンなんてすばらしいお菓子を思いついてそれを作り上げた。それに、なにかを考えるときの癖が変わったね。歩き方も少し以前とは違う。ちょっとした時の仕草の中に、僕の知らないものが混じるようになった」
そんな変態的なところで気付かれてたなんて、怖すぎる。
けれどセボンの瞳はどこまでも真剣だ。
睫毛が交差するほど近づいている。
薄くて艶やかな唇から、甘い果実の香りがシーナの唇に吹き付けられた。
「シーナ?君は誰なの?」
とろりとした燃える海が、眩しそうに細められて――。
「キャンッ」
次の瞬間には、倒れこんだセボンに押しつぶされたコッコの悲鳴が轟いた。
後ろ手で上半身だけ後退っていたシーナの胡坐をかいた脚の間に、セボンの大きな身体が突っ伏している。
怒ったコッコに髪の毛を噛み噛みされているセボンか、〝ズ――〟と間抜けな寝息が聞こえてきた。
「……この、酔っ払い」
シーナはゆっくりと体を元に戻すと、脚の間で眠ってしまったセボンの頭を軽くはたいた。
コッコはシーナに慰めてというようにすり寄ってくる。それを抱き締めて撫でさすりながら、シーナは深く溜め息を吐いた。

『――シーナ?君は誰なの?』
もやもやとした答えの出ない問題を突きつけられた気がした。
シーナはその夜、セボンの温かさを感じながらまんじりともせず朝を迎えることとなった。







「それでは今から、シーナ先生の珍味教室を始めようと思います」
シーナはいつもより動きやすいドレスに手袋、長靴という重装備でそう宣言した。
ちなみに長い髪は三つ編みにして、花柄の三角巾もかぶっている。
シーナの前には、いつもと何も変わらない格好のセボンと、シーナと同じように重装備のセイネとアンジー、そしてなぜか乗馬服を着たアルバートが立っていた。
ここはアルトリアの森の入り口。この深い森を抜ければ、霊峰ネージの麓へと出る。
「はい先生」
セボンが抑揚のない声でやる気なく挙手をする。
「はい、セボン君」
シーナは腕に下げた籠バッグの中のコッコを確認しながら、セボンを促した。
「珍味教室なのにどうして森なの。珍味を探すの?菓子職人なのに?」
暗に菓子職人なら珍味を作れよと言われている。
「いい質問ですね」
シーナはうんと頷いて、セボンからセイネとアンジー、そして柔和な笑みを浮かべているアルバートへと視線を移した。面と向かって相手にしたくなかったともいう。
「今から私たちは森に入って〝スモークチップ〟の原料を探します。今回の珍味を握るスモークチップを探すには、香木に詳しいらしいアルバート氏の助力も必要だと思い、今回応援に駆けつけてもらいました」
シーナのわざとらしい説明に、セボンの機嫌が悪くなったのを肌で感じた。
何故かセボンは、アルバートと相性が良くない。
「香りのいい木としては、サクラ、クルミ、ナラ、ヒッコリーなどです。この森にあるかはわかりませんが、香りのいい木を見つけたら即アルバート氏を召喚して、可か不可かをお尋ねください」
酔っ払ったセボンに仕掛けられて、まんじりともしなかった夜。
シーナは椎奈の頃、三番目の兄が作ってくれたキャンプ飯のことを思いだした。
登山が趣味の三番目の兄は、よく椎奈をキャンプに連れ出した。そこで振舞われたのが、燻製料理である。キャンプ用の燻製器で、卵や肉、魚介類を燻しては椎奈に振舞っていた。正直、椎奈は燻製の香りが苦手だったのだが、兄が自慢げに振る舞うので妹根性でおいしいおいしいと食べていた。
そうしていやいや食べていたのに、ふとした瞬間に芳醇な味が思い出されて食べたくなり、三番目の兄にまた作ってくれとねだったものである。でも、いざ食べるとやっぱり美味しいとは感じられなくて、椎奈はもう二度と食べるかとその度に誓うのだが、やはり暫くすると食べたくなってしまうのである。
そのおかげで、シーナとなった今、付け焼刃の知識を披露することができた。
サクラもナラもクルミもヒッコリーも、兄がよく使っていたスモークチップの種類だ。
「サクラ、は聞いたことはないけれど、クルミやナラ、ヒッコリーならこの森にも自生しているはずだよ。葉が特徴的だからすぐ見つけられると思う」
アルバートが森の地図を広げて、セイネとアンジーに見せている。
シーナの日本時代の適当な知識を、きちんとこの世界の基準で考えてくれるアルバートがいてくれてよかった。
(やっぱり桜はないのか……、残念だな)
椎奈の記憶が戻ったからには、桜もこの世界にあるのではないかとつい期待してしまった。
椎奈の家の庭には、大きな桜の木があり、春になると満開の花の下で鶏達に交じって花見をしたものである。
椎奈にとって桜は、家族の象徴だった。
「このスモークチップが、今回の珍味には必要不可欠です!みんな心してかかりましょう!」
一体何に挑む気だというような意気込みで、第一回菓子職人シーナによる〝珍味教室〟のスモークチップ探しが幕を開けた――。
と、ドラマチックな出来事が起きるわけもなく、スモークチップの原料である薫り高い木は、意外とすぐに見つかった。
「これはヒッコリーだね。他に比べて、渋味や酸味が強い香りがする木だよ」
初めに見つけたのはヒッコリーだった。兄によれば、色付きもよく、魚介にも肉にも合うという木である。
(でも、確か癖が強いんじゃなかったかなあ。これをシュクルさんが好んでくれたらいいけど)
燻製など要するに煙を食べるのだ、というのは椎奈の偏見だが、口に入れた時の煙臭さは確かにある。口に入れた時に広がるあの炭臭さが、椎奈は苦手だった。
燻製の製法自体がないこの世界で、果たして受け入れられるだろうか。
へたにまずいものを食べさせては、セイネとシュクレの恋もまずいことになる。
「できれば、ナラとクルミも見つけられないかな」
ヒッコリーと比べれば、クルミもナラも初心者向けだ。あるなら有難い。
シュクルの好みがわからないため、保険は用意しておきたいところである。
「ナラかクルミのような木なら、ここに来る途中で見つけたよ」
何気なくセボンがそんなことを言う。
じゃあなぜ、その時に言わない、とその場にいた全員が思ったが、セボンはどこ吹く風できた道を引き返し始めた。
「セボンお兄ちゃんって、きれいだけど変わってるのね」
アンジーがおませな女の子らしく腰に手を当てて、呆れたような声を出した。
大方、見つけた木がナラかクルミかと確信が持てずにいたが、それをアルバートに訊くのが癪だったに違いない。
「戻るかい?それなら、ここのヒッコリーを森から少し拝借しよう」
そういうと、アルバートは腰に差していたシンプルな短刀でヒッコリーの枝、それから樹皮を剥がした。
なんて頼りになるのだ。
スモークチップの原料を見つけることばかりを考えて、それをどうやって持って帰るかまでは考えが至らなかった。
コッコはその剥がされた樹皮の香りを嗅いで、くしゃみをしている。
「アルバート様は優秀ですね」
久々に貴族のような言葉遣いで、シーナは感謝の念を伝えた。
「シーナ嬢にそう言っていただけるとは光栄ですね」
「お礼は必ず致しますわ」
「お礼などとんでもない。ですが、このヒッコリーやクルミの木がどのような料理に化けるのか、どうか私にもお裾分けをいただけるとありがたいです」
柔和な顔がにこにこと笑っている。
〝お裾分け〟なんて庶民的のような言葉が出てくるところも好感が持てる。
アルバートは貴族然としてはいるが、その笑顔は最初から親しみを感じさせるものばかりだった。
「いい人なんですねえ、アルバート様は」
シーナはしみじみと、目の前の紳士を褒め称えた。




セボンのあとについていくと、確かにクルミの木があった。
アルバートにお願いして同じように樹皮と枝を切り取ってもらい、ヒッコリーとは別の麻袋に入れることにした。
先程からコッコがくしゃみをしている。これ以上香りを混ぜるともっと悪化しそうだ。
「これだけ採れたら充分です。さあ、帰って作業に取り掛かりましょう!」
燻製卵にするには、今回採ることができたヒッコリーとクルミの木をチップにしていかなくてはならないのだ。正しいチップの作り方など知らないが、まあなんとかなるだろう。

皆が帰路に就こうとしたとき、シーナの頭上で不思議な鳴き声が響いた。
「キュン」
「ん?」
コッコである。
コッコが小さな体をシーナの頭頂部で起き上がらせ、鼻をひくひくと動かしている。
今まで寝るか食べるか寝るかの姿しか見せなかったコッコの獣らしい動きに、その場にいた全員が目を奪われている。
そんなギャラリーなど目もくれず、コッコはいつもはゆるく垂らしている耳をぴんと立てて、何かを察知しているようだ。
「コッコ、どうしたの?」
シーナが尋ねると、コッコはシーナが被っていた三角巾を牙に引っかけて奪い取ってしまった。そのまま口にくわえて器用にシーナから飛び降りると、そのまま森の奥へと走り去っていく。
「えー!?」
シーナは叫びながら駆けだした。
現状理解はできないが、コッコが走り出したので追いかけた、という条件反射である。
そんなシーナを追いかけて、セボンがすぐに追いついてきた。
「急にどうしたの、あいつ」
「わかんない!あんな動物らしいコッコ初めて見た!」
「なにそれ……」
シーナとしてもなにこれ、である。
まさかコッコがあんな軽快に走れることすら知らなかったのだから、仕方がない。
すぐ目の前の距離を軽やかに駆けているのに、追いつける気配はない。
「そういえば、アルバート様たちは?」
「セイネ親子を任せてきた。森の入り口とはいえ、獣が出たら危ないから」
さすがセボン。抜け目ない。
返事がしたかったが、息が切れてきて頷くことしかできなかった。代わりに親指を立てて、グッジョブと伝える。
「あいつ、どこまで行く気?」
〝菓子作りは体力〟と公言しているセボンは息一つ乱れていない。
毎年行われる離島へのトライアスロン的イベントでの遠泳すら余裕で泳ぎ切るスタミナオバケは、シーナを簡単に追い越して前に出た。
ちなみにシーナは、既に息が切れに切れて喋ることができない。
コッコは頭上を覆うように大きく育った木々の中にまで進んでいる。
空気も先程の場所よりずっと冷たくなってきた。
聖峰ネージの麓が違付いてきている証拠だ。
そうなると、この辺りは既に一般人の立ち入りが禁止されている区域だろう。猟師や国の関係者、樵達しか入れない場所である。
「止まった」
下を向いてひたすらぜえぜえとセボンの脚を追っていたシーナは、やっとセボンの隣に並んだ。。
ぜえ、と息を吸う。
そして顔を上げて目に飛び込んできた光景に、その息を吐くことを忘れた。
そこには、半分雪に埋もれるようにしてそびえたつ巨大な木があった。木々は逞しい腕を四方に伸ばし、その腕には薄桃色の可憐な花を抱いている。
まるで空が霞む程に満開のそれは、シーナの目を奪って離さない。
その大木の前で、コッコは立ち止まり、褒めて、と言わんばかりに胸を張っている。
「……すごいな」
心を奪われているのはセボンも同じなのか、感嘆の声が横から聞こえてきた。
花弁がひらひらと空中を舞って、シーナの頬を撫でていく。
「……シーナ?」
セボンの訝し気な声がシーナを呼ぶが、反応はできなかった。
頬を涙が伝っているのがわかる。冷たい空気の中で、流す涙だけが暖かい。
ひらひらと踊るその花弁が、シーナと椎奈を一瞬にして思い出の中に連れ去ってしまった。
「サクラだ」
擦れた声で紡ぎだした言葉の郷愁に、シーナは崩れ落ちた。
その場にへたり込んで涙を流すシーナに、コッコが駆け寄ってその頬の涙を舐めてくれる。

〝――椎奈、お兄ちゃんが作ったプリンと、こいつらが作った茶碗蒸しとスモークサーモンのどれが食べたい?〟

長兄のふんぞり返った声が聞こえる。

〝また兄ちゃんはそんな言い方して……。椎奈は俺の茶碗蒸しが一番の大好物だよな?プリンなんてデザートじゃん〟

次兄は次兄で、わざと長兄を怒らせるようなことを言う。