城は背後に険しいネージの山裾を置き、天然の要塞として機能している。
貿易が盛んな分、他国とのトラブルを避けるため、海軍の活動範囲が広い。海だけでなく、街の治安も海軍が担っている部分があり、自警団と協力して国の平和を守っているため海軍と自警団は街のヒーロー的存在だ。若者たちはこぞって志願し、難易度の高い試験と実技で高得点を取った者から特待として雇用される仕組みになっている。
そんな海軍が最近では孤児院の子供達のもとを訪れて、護身術や奉仕活動、果ては海軍上位者による文字の読み書きや計算の勉強を教えているというのだからシーナはその手広さに驚いた。
「海軍のおにいちゃんたち、怒ると怖いけどいろいろなことを知っててすごいんだよ」
アンジーは自分のことのように目をきらきらさせている。
そんなアンジーの柔らかな手を握りながら、シーナは持ってきた菓子が果たして足りるかという心配をしていた。
「今日はね、お勉強の日じゃないからいないんだけどね。会えないなんて残念だねえ、シーナさん。おにいちゃんたち、本当にかっこいいんだよ」
菓子は足りそうだがそれはそれで残念である。
そんな話をしていると、孤児院はすぐに見えてきた。路地を二つはいれば辿り着くので、当然と言えば同然である。
白いアーチ型の門をくぐり、同じく白い建物内へと足を踏み入れる。
教会も併設されているため出入りは自由なのだが、貿易も盛んになり他国からの入国者も増えたため、子供達の安全のため日替わりで見張りが立てられるようになった。
勿論、アン王太子妃の鶴の一声である。
繭型の教会を抜け、裏手の孤児院のほうへまわると、今日はいないはずの海軍の制服を着た青年が入り口に立っているのが見えた。
黒髪に誠実そうな顔の、熊のような体躯の青年である。
その横には、アンジーの母セイネがおり、二人でどうやら談笑をしているようだ。
なんだかとてもいい雰囲気なので、シーナが声を掛けるか迷っていると、いち早くセイネがアンジーに気付いた。
「アンジー!」
はじめてのおつかいを頼んだ身としては、今か今かとアンジーの帰りを待っていたのだろう。そのわりにとても楽しそうに談笑していたことは指摘しまい。
「ママ!」
アンジーには揺らしても大丈夫なクッキーの袋を持たせている。
遠慮なくセイネのもとへと突進して抱き締められたアンジーが、誇らしげにクッキーの袋を掲げ上げた。
「見て!あたしちゃんとお買い物できた!」
商品だけじゃなく店主も連れてきたのだから、アンジーには買い物の才能がある。
「言ったでしょう。アンジーなら大丈夫ですよって」
そんなアンジーの頬を指先でぷにぷにしながら、先程の海軍の青年がセイネに笑いかけた。
随分と親しげだ。アンジーは青年に手を伸ばして抱っこをせがんでいる。
「シュクルおにいちゃん、またママに会いに来たの?」
青年に抱っこされたアンジーのおませな呆れ声に、セイネと青年の頬が赤くなる。
おやおやとそんな二人を眺めているシーナに、セイネと青年の視線が気まずげに向けられた。
「セイネさん、こんにちは。楽しそうだからきちゃいました」
そんな二人に、シーナは大本命のプリンの箱を掲げてにっこりと笑った。
孤児院は白い塀で四方を囲まれており、その向こう側に、風でくるくると回る三羽の風見鶏が見えた。
今は総勢十名ほどの子供達が暮らしているそうだが、皆もうそれなりに大きく、昼間は外に働きに出ているらしい。
「シュクルさんったら、本当にセイネにお熱でね」
「セイネは自分は子持ちの未亡人だからって遠慮してるけど、あれはセイネも満更じゃないよ」
二人のシスターとお茶をしながら、シーナはうんうんと久々のコイバナに華を咲かせていた。
女子高生だった椎奈は、毎日のように友達と一緒になって誰がかっこいいだの誰が誰に告白しただの誰と誰が付き合っただのと、大人が聞けば呆れるような恋愛話を飽きずにしていたものである。
セイネは中庭に出したテーブルでシュクルをもてなすという名目をシスター達から押し付けられ、にこにこと楽しそうにお喋りをしている。
コッコは、アンジーに抱き人形にされても大人しくしている。抵抗しても無駄だと思っているのかもしれないし、暴れて爪を立てて傷をつけてもいけないとわかっているのかもしれない。謎の珍獣は、意外と大人である。
「シュクルさんって、海軍の人なんですね」
「それがね、軍医の卵で、エリートなんだよ。子供達の健康診断の手伝いでやってきたんだけど、そこで同じように手伝いをしていたセイネに一目惚れってわけさ」
「あんなわかりやすい一目惚れはなかったよねえ」
年増のシスター達はけらけらと笑って、シュクルとセイネに面白そうな視線を向けた。
二人のじれじれとした恋愛模様は、この教会ではいい話のタネらしい。
「そしたら生活も安泰じゃないですか。セイネさんはなにを迷ってるのかな」
夫もなく、この孤児院での仕事の収入でなんとかやりくりしているセイネのことを思うと不思議である。卵とは言え軍医である。収入も一般人より高いし、待遇もいいはずだ。そんな人間と結婚すれば、きっと生活苦からも解放されるし、アンジーにだっていろんなことをさせてあげられるだろうに。
「シュクルさん、いいとこのお坊ちゃんらしくてねえ。孤児院出の自分は相応しくないって思ってるんだろう。アンジーもいるし、そう簡単には踏み出せないだろうさ」
シスターの言葉に、シーナは自分の短絡的思考を恥じた。
「ほんとだ。結婚って、そんな単純なものじゃないですもんね。ごめんなさい、軽率でした」
貴族の出身であるシーナは、それを重々承知していたはずなのに。
途端にしょんぼりとなったシーナに、シスター達は顔を見合わせて笑った。
「あんた、得体のしれない貴族の娘だと思ってたら、普通の女の子で、とってもいい子なんだねえ」
「ちゃんとごめんなさいが言える子が、私達だーいすきなの。よかったらまたおいで。今度は私達もあんたの店に足を運ぼうかね」
可愛らしいシスター達に聖母のような笑みを向けられて、シーナはぎゅっと目を瞑った。
そうしないと、うれしい涙が零れてしまいそうだったからだ。
「そのときは、とびっきり美味しいプリンを用意しておきますね!」
後に、そのシスター達の名前がキキとララだと知り、シーナの中でキキララシスターズと命名式が行われたのだった。
「なにしてるの」
夜遅く。
既に周りの家々の灯も消され、この通りで灯りが点いているのは〝三羽の風見鶏亭〟だけだ。
そんな時間に、遠慮なく二階の住居スペースのドアを開けてやってきたのはセボンである。
今日も彫刻のような造形に美しい金髪を乗っけている。
薄闇での青い瞳は、夜の海のように光を反射していた。
シーナの戸締りは完璧だ。防災意識の高い兄達に囲まれて育ったので、店の扉もドアも、鍵を完璧に閉めて上の部屋へと上がってきた。
「合鍵持ってるからって、こんな時間にレディの部屋にやってくるのはどうかと思う」
「レディがこんな時間になにしてるの?」
シーナは寝間着のワンピースのままベッドに胡坐をかき、真横の丸テーブルにノートやお菓子の本、ペンを転がしていた。コッコはそんなシーナの脚の間で、すやすやと眠っている。
「それからレディはそんな恰好しないでしょ」
セボンが呆れたようにブランケットを投げてよこした。
シーナはあははと笑いながらそのブランケットであぐらを隠す。
確かにレオパルド家でこのような真似をしようものなら、大騒ぎだったかもしれない。
貴族としてのしがらみから抜け出したせいで、最近では椎奈の頃の所作が顔を出しているように思う。
「それで、なにしてるの?」
セボンが首を傾げながら、シーナの横に腰を落とした。
腕と腕が触れ合う距離だ。
レディだなんだというわりには、セボンが一番シーナを女としてみていないのではないか。
とはいえ、昔からの馴染みである。シーナも今更ぐちぐちは言うまい。
「うちのお客さんがね、今度お友達の誕生日に、変わった食べ物を贈りたいんだって」
「変わった食べ物?」
「そう、そのお友達が、珍味が大好きらしくて」
シーナはセボンにかいつまんで事情を話すことにした。
正直、いい案が浮かばなくて煮詰まっていたところだったのである。
お客さんとは、昼間あったアンジーの母親セイネのことで、今度誕生日を迎えるお友達とはシュクルのことだ。
二人の茶会の間にそのような話題になったらしく、アンジーによる〝シュクルおにいちゃんのお誕生日パーティーをしよう!〟の一言により、今度孤児院でお誕生日パーティーが開かれることになったらしい。
盛り上がるアンジーとシスター達をよそに、セイネからこっそり持ち掛けられた相談が、これである。
「それでね、レシピをお願いされたの」
「シーナに、珍味のレシピ?」
「そうよ、無謀でしょ」
とはいえ、セイネはシーナのことを菓子職人だと思っているのだからその流れになることもなんらおかしなことではないのだが。
さすがに、プリンしか作れないんですけどねあははとは言えなかった。
「卵を使ったなにかにしようかなって思ったんだけど、これがなかなか難題なのよねえ」
シーナなりに〝珍味〟を調べてみたが、この世界の珍味は地球の珍味とはレベルが違った。
〝水色ドラゴンの肝をウィスキーに漬け込んで百年〟〝魔境ジグログに棲息するスライム王の幻の脚〟〝ヒクイドリの卵を満月の夜にカシワの葉で包んだもの〟などなど、椎奈には理解できないものばかりである。
とはいえ、シーナとしてはなんとなく納得できるこの世界の〝珍味〟だが、それを今すぐ用意しろと言われてもできない。この世界では、〝すぐ手に入らないからこそ珍味〟といった意味合いもあるのである。
二ホンでのクサヤやカラスミとはまた違ったものを指すのだ。
「卵なら安価で手に入るしね。どうするの?水色ドラゴンの肝みたいにウィスキーに漬けてみる?」
「ただのウィスキー臭い卵ができるだけじゃない」
シーナとしては、セイネでも作れて手間はかかるが百年はかからないものを作り上げたいのである。
毎日は食べれなくてもいいから、たまに食べたいと望めば食べれるようなもの。
(椎奈のときにもそんなことを思ったことがあったな……。なんだったっけ)
兄三人のご飯とお菓子で育った椎奈の身体は、きちんとそういった感覚を覚えている。
シーナが口許に手を当てて考え込んでいると、無表情のセボンがそっと手を伸ばしてきた。
口許に充てていたシーナの手を、そっと取り上げる。
「なに?」
顔を上げると、随分と近くに美しい顔があった。
鼻腔を擽る甘い果実のような香りは、彼が作るジャムのものだろうか。
「シーナにはそんな癖なかった」
一瞬にして〝珍味〟が頭の中から吹き飛んだ。
先程は夜の海のようだと思った瞳が、今は近くのランプに照らされてまるで海が燃えているように見える。
「シーナの中にいる君は誰?」
ずきりと胸が痛んだ。
それは、シーナの中の椎奈を否定されたからか、身勝手にも、今のありのままのシーナを受け入れてもらえないと突きつけられたからか。
「きっと狡いのは君のほうなのに、どうして泣きそうな顔するの?」
「狡いよ、シーナ」
セボンがそっとシーナの頬を撫でた。
世界で一番美味しいお菓子を作る指が、まるで焼きたてのシフォンでも撫でるようにシーナの皮膚を辿っていく。
その意図がわからなくて、シーナは益々混乱した。
シーナの知る限り、幼馴染のセボンはこのように触る人ではなかった。
「……シーナはシーナって、私、言ったよ」
出した声は震えていた。
わかって、なんて勝手なことは言わない。
言わないけれど、誰に疑われても、セボンには〝シーナの言葉〟を信じてほしかった。
「シーナはシーナ?本当に?」
ゆらゆらと燃える海に飲み込まれそうになりながら、シーナは唇にぎゅっと力を込めた。
そうでもしないと、唐突に不安定になった心が爆発しそうだったからだ。


