アルトリア国の子爵令嬢シーナは、三人兄弟の末っ子である。
上には兄が二人いる。一人は長年片思いしていた女性と晴れて結ばれ家督を継ぎ、一人は自分探しの旅に出たまま帰ってこない。
長兄は王城の食糧庫を管理する部署に勤め、流通してきた珍しい食材を王へ献上するのと妻を愛するのに余念がない。
次兄からは時たまどこの大陸から出したのかというようなボロボロの手紙が届く。近況を報告する短い文章と家族を愛しているという言葉と長旅に耐えられなかった腐ったジャムが届く。誰も食べない。庭の隅の歴代のジャムの墓があるのは、シーナだけの秘密である。
シーナは実家である古い館に暮らしながらも、兄夫婦の新婚生活を邪魔しないようにひっそりと生活していた。
両親は既に現役を引退し、中流貴族らしく田舎に引っ越し慎ましく隠居している。
目に余るほどの甘ったるい新婚生活を展開する兄夫婦を前に、その隠居生活に何故自分も連れて行ってくれなかったのかと親を恨みはしたものの、結婚の兆しが見えない娘を心配して出会いのない田舎よりいいだろうと都に置いたのもわかっていた。
そう、シーナは誰がどの角度から見ても、立派な嫁ぎ遅れである。


「シーナちゃん、今度ね、レイトン侯爵のパーティーがあるのだけど、招待状が届いているのよ。一緒に行かないかしら」
朝食の時間。
のんびりおっとりの義姉が、そうシーナに持ち掛けてきた。
庭で採れた白薔薇を水切りし、お気に入りの乳白色の花器にさしている。
レイチェルは、シーナより八つ歳上の長兄の奥さんである。
あり触れた茶髪をしたシーナとは違い、キラキラの金髪に青い瞳の、なかなかの美人だ。
この義姉を見るたびに、自分の兄がよくこんな上玉を手に入れられたものだと感心してしまう。
義姉はさっさっと手を加えながら、窓際に置かれた丸テーブルの上に美しく白薔薇を飾っている。
シーナはそれを見ながら、目の前の卵をエッグカッターで割った。
白い殻の向こう側から、とろりと朝陽色をした黄身が顔を覗かせている。食べなくてもわかる。美味に違いない。
「あちらとしては、ぜひシーナちゃんに来てほしいって仰ってるの」
嘘だ。
シーナはとろっとした黄身とほどよい固さの白身を一緒にスプーンに乗せた。
「ジャスもね、シーナちゃんに出席してほしいみたい」
ジャスとは兄のことである。義姉しか呼ばない愛の呼称だ。
シーナは義姉の話を片耳に、スプーンに乗せた卵をぱくりと口に含んだ。
味付けなんて必要ない。庭の奥で飼っている鶏が産んだばかりの朝採れ卵の濃厚な味が口いっぱいに広がる。
シーナは朝の幸せに身を浸した。
この卵さえあれば、シーナは大体幸せである。
つい先ほど味付けなんて必要ないと言ったが、シーナはその卵の上にパラパラと塩を振りかけた。
抜群の塩っ気が、卵のまろやまな味を引き立てる。これはこれで至高だ。
ゆっくりと卵を堪能したシーナは、やがてゆっくりと口を開いた。
シーナの〝卵の時間〟は、この家に住む者ならみんな知っている。レイチェルはその時間を邪魔することなく、花を活けながらシーナの言葉を待っていた。
シーナは咀嚼を終えると、ゆっくりとレイチェルのほうへ顔を上げた。
「レイチェル義姉様、それってレイトン侯爵家ご子息の社交界デビュー前のパーティーですよね?私のような嫁ぎ遅れを招待するような場ではございませんわ。兄様に頼まれたとはいえ、私なんて連れていったらいい顔はされませんわよ」
御家の事情で少し遅い社交界デビューとなったレイトン侯爵家のご子息は、今年十七歳だったはずだ。社交界デビューするには遅い歳だが、恐らく集まるのは歳の近いご令嬢方だろう。そんな中に嫁ぎ遅れを放り投げられても困る。
もっともなことを言って、シーナは次には火で炙られたパンを手に取った。
それに料理人特製の濃厚なバターを塗り、スライスした卵を並べていく。これにもう一度塩をパラパラとふりかけ、カリカリに焼かれたベーコンを乗せる。そこにオリーブオイルを少量垂らし、お行儀は悪いがそのパンを半分に折ってサンドイッチにした。
きつね色のパンの隙間から垣間見える茹で卵の白と黄色と、ベーコンのピンク色にオリーブオイルの透明なグリーン。溶けたバターの煌きが美しい。
シーナはそれをぱくりと大きく口に含むと、ゆっくりと歯を突き立てた。
ボリューム満点のそれが口の中を満たし、シーナの体まで幸せで満たしていく。
シーナは朝ごはんは好きなものを食べたい派だ。
今日一日を始めるためのパワーを、できれば美味しいものでチャージしたい。
「……貴方のその幸せそうな顔を見ているだけで、嫁ぎ遅れとかジャスの焦りとか、どうでもよくなってくるわねえ」
レイチェルは嫌味でもなんでもなく、もぐもぐとお行儀悪く口をいっぱいにしているシーナを微笑んで見つめた。
実際、シーナの嫁ぎ遅れ問題を真に問題視しているのは兄のジャイス・レオパルドと、焦っているようにはどうしても見えないと評判のシーナ本人くらいで、レイチェルは一緒に暮らせばいいじゃない?のスタンスでいてくれている。
義姉のそういう寛容さがシーナにとって救いなのだが、問題は兄である。
兄は、愛しのレイチェルとの新婚生活にシーナが混じっているのが気に入らないのだ。できるならレイチェルだけを見つめて、自分の生活のすべてをレイチェル一色にしたいのに、何かと視界の端に卵料理に舌鼓を打つ妹がチラチラチラチラしていることが気に喰わないのである。
「レイチェル義姉様、もし兄様にうるさく言われているなら、私に言ってくださいな。暫く館を出て、セボンのところにいくから」
セボンとはこの館の料理人の息子である。シーナとは幼いころから一緒で、幼馴染のように育った。今は菓子職人として自立して、驚異の菓子狂いへと成長している。
「セボンとシーナは本当に仲がいいのねえ」
仲が良すぎてあらぬ噂まで流れたくらいなので、相当である。
「困ったものだわ、セボンとはそんなんじゃないのに」
シーナはふうとため息をついて、きれいに食べ切った朝食の器を眺めた。
今日も美味しかった、と無意識に両手を合わせて黙礼する。
「あら」
それを見たレイチェルが、不思議そうに首を傾げている。
「それは挨拶かしら?異国のもの?初めて見るわねえ」
それはそうである。シーナも今日、この世界で初めて披露した挨拶だ。
シーナはゆっくりとレイチェルのほうを見て、そっと微笑んだ。
「〝二ホン〟という国の、ご馳走様の挨拶なんですって」



シーナは足早に廊下を駆け抜けていた。
自室の扉が目に入った途端、駆け足となって勢いよく部屋へと飛び込む。
この時間、使用人たちは休憩を兼ねてそれぞれの部屋でお茶をしている筈だ。物音を立てても驚く人間などいない。
貴族令嬢としては間違いなく失格な挙動で部屋へと滑り込み、シーナは乱暴に扉を閉めた。
閉めた扉に背中を預け、普段全く走らないせいで切れた息を整える。
静かな部屋に、はあはあと、自分の荒い息だけが響いていた。
深い黄土色のカーテンは既に上げられ、格子になった窓枠の向こうには青空が広がっている。今日もいい天気だ。
ベッド脇の小さなテーブルの上には、昨夜書きなぐったぐちゃぐちゃの紙切れ達が乱雑に広げられていた。
(あぶない……!あぶなかった……!!)
シーナは深い息を吐き出すと、その場にゆっくりとへたりこんだ。
いくら貴族といえど、コルセットなど日常使いしない。あんなものはパーティーでいい顔するための拷問道具である。今は身軽な家用のドレスに身を包んでいる。どれだけ汚したって構わない。そもそもへたり込んだ床には毛長の分厚い絨毯が敷かれているし、きっとそんなに汚れることもない。
遠慮なく、その絨毯の上に突っ伏して、シーナはどくどくと跳ねあがる心臓を抑え込んだ。
シーナ――いや、前世の名を椎奈。
日本で生まれ、日本で生きてきた椎奈は今、シーナとして全く別の人生を送っている。


シーナはずりずりと、レイチェルや兄が見れば悲鳴を上げそうな動きで、扉の前からベッドへと移動した。
ベッド脇の書きなぐられた紙を手に取る。
そこには、インクの色で書きなぐられた〝日本語〟と〝アルトリア語〟が混在していた。
(――椎奈、日本、鶏、おにいちゃん、交通事故、シーナ・レオパルド、アルトリア、二十五歳……)
昨夜、いきなり蘇った前世の記憶をなんとかまとめようと、目覚めた夜更けにランプを点けて必死に書きなぐった。
その夢を見たのは、昨日が初めてではない。
いつから始まったかは覚えていない。幼いころからのような気もするし、社交界に出てからだったような気もする。
断片的な夢としてまるで映画でも見るかのようにそれは現れ、不定期に、常にシーナの眠りに寄り添っていた。
とはいえ、それがまさか自分の前世の記憶などとは思いもしていなかったのだから、昨夜の衝撃たるや恐ろしいものがある。
半開きの宝石箱をやっとの思いで全開したように、中から記憶という記憶が光のごとく迸ったのである。

椎奈は、日本でしがない養鶏場を営む家に生まれた。四人兄弟の末っ子で、上に兄が三人いた。
実家の養鶏は、規模は小さいながらも地元では美味しい卵を降ろす養鶏場として有名で、兄も椎奈も、その卵を食べて育ったのである。
生き物を扱うので、当然臭うし汚れるが、それが椎奈にとっての日常だった。特に鶏の、ひよこから成鳥になるまでの過程で見られる、半分ひよこ、半分鶏のあの滑稽な姿が堪らなく大好きだった。
そして兄たちが作ってくれる卵料理――多忙な両親の代わりに、それなりに歳が離れていた兄たちの手料理が、椎奈の命の糧だった。
長兄はレストランで働きだしてから、料理の腕をグングン磨いた。
そんな兄の誕生日に、いつもおやつに作ってくれるプリンをお返しに手作りしようと思い立ったのが、椎奈の運命を変えた。いや、決まっていた運命だったのかもしれない。
いつも出されたものを食べるだけで、プリンをどう作るかも知らなかった椎奈がレシピを調べ、材料を買いに出かけた帰りに、トラックに轢かれて死んでしまったのだ――。
死んだ確信はないが、その後の記憶が全くないので、恐らくそういうことだろう。
そうして今は、アルトリアのシーナ・レオパルドとして生きている。
(兄ちゃん、どう思っただろう。自分を責めてないかな)
長男気質の長兄の性格を思うと、何故あそこで死んでしまったのかと悔やんでも悔やみきれない。椎奈がなぜ出掛けたかを知れば、長兄は傷付いただろう。
(下の兄ちゃんたちが、支えてくれたかな)
次兄は小料理屋で働いていた。茶碗蒸しが好きなあまりに、最高の茶碗蒸しを学ぶために就職したのである。面接でそれを正直に話し、女将さんが気に入って雇ってくれた温情就職だ。
三番目の兄は登山が趣味の大学生だった。バイトに明け暮れていたかと思えば、お給料を全てキャンプ道具につぎ込み、キャンプ飯も作ってくれた。
皆が皆自由に生きていたが仲が悪いわけではなかったから、長兄が落ち込んでいたなら、きっと慰めてくれただろう。
そこはもう、この違う空の下、そう願うしかない。
自分が死んでしまった悲しみはそこまで深くはなかった。
今こうして、〝シーナ〟として生きていて、あの頃の椎奈のように、漠然とこの先に未来があるのだと感じているからだ。
今朝は寝坊した。だから、兄夫婦との朝食の時間に間に合わなかったのだ。
さすがに泣いて、泣いて、お腹が空いて起き上がった。
シーナの身体は、前世も今世も、卵料理でできている。
前世でそうだったからこそ、このアルトリアのシーナも、卵料理が好きなのだろう。
(兄ちゃんの作ったプリンが食べたい)
友達と喧嘩した日、飼っていた猫が冷たくなっていた朝、彼氏に振られた夜――兄のプリンは、椎奈をよく慰めた。
残念なことに、この世界にプリンは存在しない。
食材は前世と特に変わりないが、たまにドラゴンの卵やスライムの肝なんてものが出回っている。どちらとも生きたものにはお目見えしたことがないので、実在するかはわからないが。