「もうやだ! 俺死ぬ! 将棋盤のカドに頭ぶつけて死ぬ!」

結がテーブルに突っ伏して、脚をバタバタさせるから、マグカップの中でお茶が大きく波打った。
私はふたり分のカップを持ち上げて避難させる。

「それは本当に死んじゃいそうだね」

結は今日、棋聖戦の決勝トーナメントで負けた。
途中まで少しずつ少しずつ有利な状況を作っていたのに、元タイトルホルダーの力強い一手によって、勝利を丸ごと持って行かれたらしい。

「なんだよ△7六歩って! そんな手ある? △同歩でしょ! 普通△同歩だよね? 棋士160人いたら159人は同歩だよ。なんで七筋見てんの? どんだけ視野広いんだよ。サバンナ育ちか!」

「えーっと、梅村九段は神奈川県横浜市出身だって」

「感想戦でさ、『川奈くんは飛車振らないの?』だって! 自分だって居飛車指さないくせに!」

「振ってやればいいじゃない、飛車」

「……………………………いや、無理。センスない」

顔を上げた結の前髪には、変な型がついている。
それも直さず、幽鬼のようにユラリと立ち上がった。

「……走ってくる」

「え!今から?」

「今朝は走らなかったから」

「仕方ないじゃない。対局だったんだもん」

「俺みたいなダメ人間は、休むとズルズル底なしに休んじゃうから」

意外に真面目なこのダメ人間は、咳してるから、と止めた日でさえ、日課のランニングは続けていた。
おかげで熱を出して、温泉旅行は延期になった。

「無理すると、また旅行行けなくなるよ」

「大丈夫。帰ってきたら弥哉とゆっくりお風呂に入るから」

「それは嫌」

「けちー」

ちなちゃんの引っ越しが決まって、さしもの私も本格的に慌て出した。
慌てていてもどこでもいいわけじゃないので、一長一短の候補のどこを妥協するか、げんなりしながら悩んでいた。
それを見かねたちなちゃんが、遊びに来ていた結に言った。

『ねえ、川奈くんのとこって余裕あるよね?』

研究会用の和室にはほとんど物がなく、押入れも将棋盤と座布団くらいしか入っていない。
和室もときどき使いたいから個室は無理だけど、寝室を一緒にしていいならゆとりはある。
……ということは、あとから聞いた。

『千波さん、 今日さっそくいただいて帰ります!』

元々たいした荷物もなく、無駄にスペースを使っていた201号室に、私が移住してきたのはつい先週のこと。

それを聞いたお兄ちゃんは不機嫌にむっつり黙ったものの何も言わなかった。

あれは、妹を親友に取られた不機嫌じゃなくて、親友を妹に取られた不機嫌だと思っている。