「あれ? ちなちゃんは?」

「吉岡さんのところに行くって」

玄関まで走って靴を確認したら、私の靴と、少し踵の折れた男性もののスニーカーしかなかった。
一応部屋を覗いてみたけれど、やはりいない。

「『泊まってくるからごゆっくり』って言ってたよ」

背後で不穏なことを言われて、距離を取るようにキッチンに戻る。
川奈さんはのんびりした足取りでついてきた。

「そんなに警戒しないでよ。何もしないって。まだ明るいから」

窓の外には、暮れかかった空が広がっている。
沈みゆく太陽を指で摘まんで引っ張り上げたい。

「……この前だって明るかった」

「だってあれは仕方ないでしょ」

ソファーの背もたれに腰かけて、

「おかげで勝てたし」

と笑う。
コバルトブルーの羽織が、その姿に重なって見えた。

「あの……おめでとう。最初に言わなきゃいけなかったね」

「ありがとう」

当たり前だけど、川奈さんは特に変わったところもなかった。
「暑くなってきた」とコートをぐるぐるっと丸めて、ソファーに置く。

「すごく……いい将棋だったと思う。詳しくない私でも、気迫とか、熱はわかったよ」

「相手のミスに助けられた部分はあったけど、まあそれも含めて俺らしいかな」

将棋は相対的な勝負だから、自分がミスをしても、相手がそれ以上のミスをすれば勝てる。
けれど、プロの場合、そうそうかんたんにミスはしてくれない。
粘って、局面を複雑にして、相手が読んでいないであろう手を指して、ミスを呼び込むのも作戦のひとつなのだ。

「それでも、なんていうか、すごく……」

「格好よかった」と言うのは、「好き」というより勇気が必要だった。
想いが通じても、私は全然進歩していない。