「必要ない」と彼は言い切り、椅子に座って前を向く。
空気の悪い雰囲気が漂い、思わず男性に謝罪の意味を込めて頭を下げた。
すると男性は徐に目の前に散らばった紙の端を破り、隅に投げられたペンで何やら書き記して此方に差し出しながら目配せをする。
それはスーツのジャケットのポケットを指しており、受け取ろうか迷ってる間に男性は彼の様子を伺いながら紙を忍ばせ、涼しげに笑った。
彼の頭の先を見ながら、意識は左に集中していて、上がりだす心拍数を落ち着かせようと呼吸を繰り返す。
暫くそうしてると彼が不意に言った。
「なぁ……柚月、少し外出ろ」
此方も見ずに投げられた言葉に、自分の呼吸がそんなに五月蝿く聞こえてたのか、と彼の地獄耳に驚きながら個室を出て入り口の横に佇む。
『そんなまさか』と考え、自分の態度が余りにも落ち着かない事に苛立ったのだと思った。
ふとポケットの中身に手を掛け、取り出した紙にはアドレスが記されており、そこには[涼太]という名前もある。
それを眺めながら、この世界は名を体で表す人が多いと感じ、羨ましく思った。
そして、その名前にようやく頭の検索サイトが働き、男性が役者を軸としたイケメンとしても人気で歌手としても売り出し中の人物であることが把握出来た。
綺麗な肌、涼しげな目と落ち着いた声、背も高くて顔は小さくて、大きな手と引き締まった体、人気が出るのは当たり前だ。
確か年齢は彼の1つ年下で29歳、時折女性の噂が週刊誌などで載っていたが真相は闇の中。
貰った紙をポケットに仕舞い、涼太に彼女が居るのを想像して羨んだりして、あの背の高い隣に立つのはどんな気分か、と再び想像に耽る。
大きな手が頬を通って、形の良い唇が重なった時に感じる煙草の匂いで全てが崩れた。



