めぐみの誕生日のお祝いをしてから約三週間。
 師走はその名の通り、足早に過ぎようとしている。
 そして今日は、クリスマス・イブ。
 そうそう。
 実は安田さん。
 一週間前に彼氏が出来ました!
 やっぱり笑顔が良かったんだね。
 相手は総務課の西田さん。
 純平より二つ年上で、なかなかのイケメン。
 美男美女のカップル誕生で、社内がざわついてます。
 そんなお二人にとっても今日はとても素敵な一日になるはず。
 
 それから丁度土曜日なので、朝からデートするカップルも多いようで、街にはたくさんの恋人達が歩いていた。
 わたしと純平もその中の一組で、こんな日が訪れるなんて、本当に夢のよう。

「清美」
「うん?」
「今晩、ホテルのレストランを予約してるから」
「えっ?」

 今日は、いつもの週末と同じく、純平のマンションでクリスマスのお祝いをするんだと思っていた。
 頭の中で、どこでケーキを買おうかと考えていたのに。
 でも、嬉しい。
 
 それまでの間、買い物をしたり、カフェでゆっくりと過ごした。
 今日は雨こそ降っていないけど、あいにくの曇り空で風も冷たかった。
 天気予報では、これから下り坂という事なので、雪が降ったら最高だなと思う。
 林田くんと鶴田さんもデートかな?
 めぐみは、高校の時の女友達三人と過ごすって言ってた。

「寒くなって来たね」
「うん」
「そろそろ行こうか」
「そうね」

 彼が予約してくれたホテルは街の中心部にあって、宿泊客じゃなくても入りやすいレストランがある。
 レストランは二階部分にあり、窓側の席からは、星を散りばめたような電球に彩られた並木が見える。
 キラキラとしてとても綺麗だった。

「それじゃ、乾杯しよう」

 ワイングラスがチリンと言って揺れた。

「美味しい」

 料理はフランス料理のフルコース。
 こんな料理に慣れていないわたしは、緊張しながらそれを口に運ぶ。
 純平は流石だ。
 自然な感じで味わっている。

「どうした?」
「こんな豪華な料理、食べ慣れてなくて」
「いいよ、そんなにかしこまらなくても。いつものように食べればいいんだよ」
「そうは言っても、やっぱり……」
「誰も見てないって。俺しかいないと思って食べて」
「う、うん」

 そう言われても、やっぱり最後まで肩に力が入っていたようで、レストランから出たら、思わずため息が出てしまった。

「やっぱり、俺達にはラーメンが合ってたね」
「純平はリラックスしてるように見えたけど?」
「そう見せてただけさ。俺が緊張してたら、清美がもっと食べにくくなるだろうと思ってね」
「そうだったの? でも、ありがとう。美味しかったわ」
「うん」
「さてと、それじゃどこかでケーキ買って帰ろっ」
「ケーキは、準備してる」
「えっ?」

 いつの間に?
 だけど、今朝冷蔵庫を見た時には入って無かったよ?
 その後はずっと一緒だったのに。

「行こう」
「うん」

 純平に手を引かれ、エレベーターに乗る。
 ここは二階なので、降りるのは階段を使ってもいいくらいなんだけど。
 うん?

「ちょっと純平、下に降りるんじゃないの?」

 彼が押したのは、二十五階のボタンだった。
 上に、バーでもあるのかな?
 そこからだったらもっと夜景が綺麗だろうな。

 二人だけのエレベーター。
 階数を告げる表示が、二十五階で停止した。
 静かに扉が開く。

「ここって……」

 客室?
 エレベーターから続く廊下の両サイドには、部屋の番号が書かれたドアが並んでいた。
 
 純平は、突き当たりの部屋の前で足を止めた。
 スーツのポケットから取り出したのは、カード式のキーだった。

 カチャリ

 そこには、これまた馴染みの無い広い部屋が現れた。
 家族で何度かホテルや旅館に泊まった事はある。
 だけど、入ったらすぐにベッドが二つ並んだ部屋か、部屋の真ん中に座卓のある和室だった。
 ここは、まるでマンションの一室。
 ううん。
 お金持ちの人の広い広いリビングだ。
 ベッドは、ずいぶん奥の一段高くなったところにあった。

「えっ? 何? ここに泊まるの?」
「そうだ」
「それならそうと早く言ってよ。何も持って来てないじゃない」

 着替えも化粧品も全部純平のマンションに置いて来た。

「それじゃ、サプライズにならないじゃん。それから心配しないで、着替えの下着は持って来た。後はホテルの備品があるから大丈夫だろ?」
「下着って……」
「はい、これ」

 渡された紙袋を開けてみると、中からセクシーな下着が出て来た。
 こ、これを着けろって?
 顔がかーっと熱くなる。
 シルクのような光沢のあるピンクのブラジャーとお揃いのパンティ。
 花の刺繍も施されていて、普段着けているタイプとは大違い。
 安田さんにだったら絶対似合うだろうなというデザインだった。

「待って。これ、純平が選んだの?」
「まあね。だけど勇気いったよ。ランジェリーショップなんて、初めて入ったからね。そこの店員さんに選んでもらった」

 どういう希望を伝えたら、こんなデザインになったんだろう?
 その店員さんがわたしを見たら、選択を間違ったと思うだろうね。
 色気の無いわたしには、絶対似合わないもん。

「ほら、見て」

 彼に促され、窓から外を見た。

「わっ素敵……それに、雪!」
「そうだね。明日はホワイトクリスマスだ」

 いつの間に降り出したのか、小さな雪の欠片が窓を掠めて落ちていく。

 トントン

 そこにホテルマンがケーキを乗せたワゴンを運んで来た。

「わっ、ケーキ」

 そうか。
 こういう事だったのね。

「メリークリスマス。今夜は素敵な夜をお過ごし下さい」
「ありがとう」

 何もかもが夢のよう。
 わたし、こんなに幸せでいいの?
 
 生きる意味を失っていたわたしに訪れた奇跡のような幸せ。
 幸せ過ぎて怖いくらい。
 いつも心のどこかに、自分は幸せになっちゃいけない人間なんだというのがあったし、幸せなんてずっと続くものではないというのがあった。
 いつかまた失意のどん底に落とされるのではないか。
 そんな不安がつきまとわり、完全に消える事はなかった。
 それでも、純平と過ごした日々が、わたしに強さを与えてくれた。
 強さというよりも自信?
 よくわからないけど、以前のように嫌な事からすぐに逃げ出したりもしなくなったし、いろんな人と交わる事で、ひとりぼっちじゃないんだという温かい気持ちにもなれた。
 純平。
 全ては彼がわたしを救ってくれたんだ。

「どうした?」
「純平、ありがとう」
「うん?」
「わたし、生きていて良かった。こんなわたしを愛してくれてありがとう」

 どんな言葉を発しても足りないくらい、あなたに感謝しています。
 わたしがあなたに出来る恩返しはそんなには無いかもしれないけど、それでもあなたの為に何かしてあげたい。

 そんなわたしの口から出たのは、自分でも言った後にはっとするものだった。

「純平。わたしと結婚して下さい。わたし、あなたとずっと一緒にいたいの」

 わたし、何て事言っちゃったんだろう。
 いつか彼から言ってもらえるかな……という淡い期待はあったけど、それをいつまでも待つつもりでいたのに。
 
「清美。悪い」
「えっ?」

 さっと血が引くのを感じた。
 指先がしびれる。
 断られた?
 やっぱりわたし、嫌われたの?

「あ、ごめんごめん。そう言う意味じゃないんだ」

 慌ててわたしを抱きしめる彼。

「清美からのプロポーズは無かった事にして欲しい」

 どう言う事?
 意味かわからない。
 だから、わたしとは結婚出来ないって事でしょ?
 悲しかった。
 消えてしまいたいほどに。
 もう二度と命を粗末にしないと誓ったのに、純平から拒否された事で、その決意はもろくも崩れ落ちた。

「離して」

 彼の腕から強引に抜け出す。

「清美?」
「わたし、帰る」
「ち、ちょっと待ってよ。お前、誤解してるよ」

 もう何も聞きたくなかった。
 これ以上彼といたら、体の内側から爆発して粉々になりそう。
 甘いクリスマス・イブが、ううん、彼との幸せな日々が消えてしまう。
 やっぱりわたしには贅沢な事だったんだね。

「清美、落ち着けってば」
「離して!」
「清美!!」

 彼の大きい声にビクリとした。
 怒ってる?
 彼に怒鳴られたのはこれが初めてだった。

「ごめん。怒ってるわけじゃないんだ。ちょっと俺に話す時間をくれないか?」
「……」
「聞いてくれる?」

 彼の目を見て頷く。
 もうさっきのような怖い顔はしていない。
 それから、声質もいつもの穏やかな彼に戻っている。
 とにかく聞こう。
 ここを去るのは、その後でいい。

「わかった」
「良かった。それじゃ、そこに座って」

 彼に言われ、ソファーに腰掛ける。
 彼もわたしの横に座った。
 そして、わたしの手を握る。

「あのさ、俺、今日、清美にプロポーズしようと思ってたんだよ。そしたら急にお前からプロポーズされたからテンパッちゃってさ。だから、その、清美からのプロポーズは一旦胸にしまってもらえるかな?」
「えっ……」

 そう言うと彼は、わたしの前にひざまづき、優しく手を握った。

「清美、君と出会った頃、まだ君の心が傷ついている事を知らなかった。だけど勇気を出して過去の事を話してくれたね。嬉しかった。それから俺は、絶対清美を守る。一生守りたいと思った。その気持ちは増すばかりで消える事は無かった。俺の前で本来の明るさを取り戻していく君を見るのも楽しかった。だけど、俺がどんなに頑張っても、過去の事を完全に忘れさせる事は出来ないと思う。それでも、いつもそばにいて、君を守っていきたい。全力で愛したい。だから、俺と結婚して下さい」

 そう言うと彼は、ポケットから出した小さな箱を開けた。
 中には指輪が入っている。
 指輪を差し出し、頭を下げたまま動かない彼。
 わたしってバカだ。
 どうしてあんな事言っちゃったんだろう。
 一生懸命プロポーズの言葉を考えてくれて、それを言うタイミングを計っていたはずなのに、それを台無しにしちゃったんだね。

 ごめんねって謝りたかった。
 だけど、それを言うとまた誤解させちゃうと思ったわたしは、手短に、

「はい」

 とだけ、呟いた。

 ぱっと顔を上げ、満面の笑みを向ける彼。
 そしてわたしの手を取り、指輪をはめてくれた。
 嬉しい。
 嬉し過ぎて、涙が溢れた。

「おいおい、泣くなよ」
「だって、嬉しいんだもん」

 わたしは、彼に抱き寄せられ、頭をポンポンと優しく撫でられた。

「それじゃ、ケーキ食べようか」
「あ、忘れてた」

 外は、粉雪からぼたん雪に変わった白いものが、窓に当たってはすぐに消えてゆく。
 地上は、街灯に照らされた地面のところが白く見えた。
 後で外に出てみたいな。
 それを彼に告げると、彼も同意してくれた。
 
「わっ、積もってる」
「すげーな」

 まだ人通りの多い所では、たくさんの足跡で雪が消されていたけど、側溝の近くには白くてくかふかの雪が何センチか積もっていた。
 このまま降り続けば、朝には道全体が真っ白になっているのが見られるかもしれない。

「クリスマス・イブに雪が積もるのって、久しぶりだよな? ここ数年、見た事が無い気がする」
「そうね」
「やっぱり天も俺らを祝福してくれているんだよ、きっと」
「うん」
「寒っ。そろそろ部屋に戻ろう」
「そうだね」

 ちょっと外に出ただけだったのに、雪はあっという間に体から熱を奪ってしまう。
 手の先もすっかり冷たくなってしまった。

「行こう」
「うん」

 慌ててホテルに入る。
 一つ扉をくぐれば、そこは快適な空間だ。
 外がどんなに寒くても、ここにはその寒さは侵入して来ない。

 部屋に戻る。
 そして、残ったケーキを冷蔵庫に入れると、わたし達は温かいお風呂に入った。

「あったかい」
「そうだね」

 彼にピタリとくっつく。
 
「明日、ご両親に挨拶しに行ってもいいかな?」
「明日?」
「善は急げって言うだろ」
「だけど、早過ぎない? まあ、うちの両親はいつ話そうと賛成してくれると思うけど」

 父が始めて純平に会った日。
 わたし達の事を勘違いしたお父さんは「式はいつにする?」何て事を言ってたっけ。
 それが現実になるんだね。
 だけど……
 まあ、わたしが言い出さなかったからかもしれないけど、まだ純平のお母さんに会ってないんだよね。
 どんなお母さんかも聞いていない。
 純平から話してくれる事も無かったから、わたしも聞かないままできた。
 だけど、結婚となると両家の問題だし、会わないわけにはいかない。
 もし、純平のお母さんに反対されたら……
 ううん。
 純平のお母さんだもん。
 純平が選んだ人ならって賛成してくれるよね?
 考えが、甘いかな?

「ねぇ純平」
「うん?」
「純平のお母さんに会いたい」
「えっ」
「だって、結婚するのよ。勝手に出来ないでしょ?」
「……いいんじゃない? 母は、俺が決めた事には反対しないよ」
「でも……」
「だけど、清美に隠し事はダメだよな」
「隠し事?」
「いつか話そうと思ってたんだけど、実は俺の母親、施設に入っているんだよ」
「施設って?」
「まだ、五十代だけどさ、数年前から認知症を煩ってる。若年性認知症ってやつさ」
「若年性認知症……」
「年々病状は進行してて、俺の事わかる日もあるし、どなたですか? って言われる日もある。だから、清美の事を紹介しても、わからないと思うんだ」
「会いたい」
「えっ?」
「それでも会いたい。明日、お母さんの所に行きましょう。うちの両親はその後でいいから」
「……そうだね。でも、傷つく事を言うかもしれないよ?」
「大丈夫。純平のお母さんに会いたいの」
「わかった」