「小田さん、これ総務に届けてくれる?」
「わかりました」
わたしは今、お菓子を扱う会社の倉庫で働いている。
昨年四月に入社して、一年と三ヶ月が過ぎた。
そこでわたしは、ピッキングや検品、そして梱包と出荷までの一連の業務を担当していた。
ここにはわたしの過去を知る人は誰もいないので、本来の自分でいる事が出来た。
それでも最初は人が怖くて震えそうな日もあった。
上手く言葉が出てこなくて、自己嫌悪に陥る事もあった。
そんなわたしを助けてくれたのは、同じ部署で同期入社の大野めぐみだった。
彼女は男っぽい性格で、物事をはっきり言う性格だけど、とても優しく面倒見がいい。
わたしが困っているとすぐに手を差し伸べてくれる子だった。
「お疲れ様です。これ、友田チーフに言われて持って来ました」
「ありがとう」
「あっ……」
書類を渡す時に触れた温かい手の持ち主は、社内で噂の総務のプリンス、椎名純平さんだった。
聞くところによると、彼はわたしより十歳年上の二十九歳。
身長一八〇センチで、実際に見た事はないけれど、シャツを脱ぐと胸板が厚くがっちりとした体型らしい。
まあ、そんな姿を見るチャンスは、永久に来ないだろうけど。
もう一つ、悪い方の噂として、かなりの女ったらしだそうだ。
声を掛けた女の子は、例外無くものにしているらしい。
「清美ちゃんって、言ったっけ?」
「えっ?」
突然下の名前で呼ばれてドキッとした。
「会社に入って一年過ぎたよね? どう、今度お祝いに食事でも」
「ちょっと椎名君、また若い子を口説いちゃって」
「別に口説いているわけじゃありませんよ。いいじゃないですか。俺、彼女がいるわけじゃないし」
「だからって、来る人来る人に声を掛けなくてもいいでしょ。しかも、仕事中だし」
「リーダー、人聞きの悪い事言わないで下さいよ。まあ確かにみんなに声は掛けてますよ。だからって、ところかまわずってわけじゃありませんよ」
「小田ちゃんを誘ってたのは事実でしょ」
そう言って、眉間に皴を寄せているのは総務のお局様、和田美野里さん。
彼女は、今年四十歳になるそうだがとても若く見える。
大きな瞳にぷっくりとした唇。
年は離れているけど、会ったらいつも声をかけてくれる優しい先輩だ。
「小田ちゃん、彼の言葉なんか真に受けなくていいんだからね。嫌だったら無視しちゃっていいのよ」
「はい。それじゃ、失礼します」
とは言ったものの、実はわたし、椎名さんに恋をしている。
顔も好みだし、とても優しい人だ。
わたしが総務に行くと、必ずといっていいくらい声をかけてくれる。
「お疲れ様」とか、「今日も元気そうだね」とか。
きっと、誰にでも言っている言葉だ。
だけど、たとえ社交辞令であっても嬉しかった。
会社で彼の姿を見られるだけで幸せだった。
今のわたしの生き甲斐。
椎名さんと同じ職場で仕事が出来るという事。
それだけで十分だった。
それから数日後。
みんなの前じゃ返事がしにくいだろうと、休憩室でこっそり囁いてくれた。
「明日、イタリアンのお店を予約したんだ。清美ちゃんのお祝いさせてくれない?」って。
会社から少し離れた公園の入り口で待っていると、目の前に車が停まった。
わたしは、父親以外の男性の車の、しかも助手席に座るのは初めてだった。
それだけでもドキドキしているのに、隣にいるのは憧れの彼。
上下に動く肩を落ち着かせるのに必死だった。
少し落ち着くと、頬を撫でるクーラーの冷たい風に気がついた。
「涼しい」
「今日、暑かったもんな」
梅雨が明け、季節は一気に夏になった。
一年中長袖を着ていないといけないわたしには辛い季節だ。
それでも、腕の傷は誰にも見せられなかった。
「清美ちゃんって、夏でも長袖だよね。暑くないの?」
「肌が弱いから、焼きたくないんです」
本当は半袖やノースリーブのシャツが着たい。
だけど、手首をさらす事は出来なかった。
「そうなんだ。だったら泳ぎには行けないね」
「そうですね」
「残念。君の水着姿を見てみたかったのに」
「……」
「あっ、ごめん。ここに和田リーダーがいたら、また怒られるな」
店に入っても、緊張でぎこちないわたしをリラックスさせようと、彼はいつも以上に饒舌だった。
そんな彼の気遣いに、わたしの心もいつの間にかほぐされていく。
食事を済ませ、再び彼の車の助手席に座る。
お店にいたのは一時間ほどだったけれど、車内はすっかり外の気温と同化していた。
「どう? これからうちに来ない?」
「はい」
何故だろう。
わたしは警戒する事もなく、彼の誘いを受け入れた。
周りから軽い男、誘った女はみんなものにする。
そう聞かされてはいたけれど、わたしの心に危険を察知するアラームは鳴っていない。
男性経験がないからわからないのか。
それとも、自分の本能が正しいのか。
一つだけ言える事は、まだ彼と離れたくないという事だった。
「どうぞ」
「お邪魔します」
開けたままの状態のカーテンは、タッセルできちんと束ねられていた。
これが彼の日課なのだろう。
わたしは、自分の部屋のカーテンは開けるけど、きちんととめた事が無かった。
どちらかというとずぼらな性格だ。
父親がわりと神経質で、注意される事が多い。
それに比べて母親は、わたしに似て片付けが下手だ。
……違う。わたしが母に似たんだ。
あれっ?
思わず駆け寄る。
「海?」
「外に出ようか」
ベランダに出ると、もっと海が近づいた。
磯の香りも漂って来る。
彼の部屋は、十階建てのマンションの五階部分にあった。
マンションの前に海に沿った道があり、その先に一メートルより少し高い防波堤がある。
海はその先だ。
マンションの一階部分が駐車スペースで、住居は二階から始まる。
たとえ二階に住んでいたとしても問題なく海が見渡せる高さだ。
海好きにはたまらない物件。
夜なので、水面は黒くて良く見えなかったけれど、月の明かりで波の輪郭が時折光る。
右側に突き出した岬の先端には、灯台の明かりが見えた。
「ここって、海のすぐ傍だったんですね」
玄関は反対側にあるので、ここまで海が近いとは思っていなかった。
「オーシャンビュー。俺、海が好きでさ、住むなら絶対海のそばがいいって決めてたんだ」
「わたしも好きですよ。山より海派です」
「良かった、気が合って。どう? ワインでも」
「椎名さん、わたし未成年ですから」
「いいじゃん、二人しかいないんだし」
「ダメです。それに、わたしお酒弱いんです」
「って、飲んだ事あるじゃん」
「実は、ちょこっと」
「……まっ、いいか。無理には勧めないよ。それじゃ、ジュース持って来る」
そう言うと彼は部屋に戻り、グラスに注いだオレンジジュースを持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
「清美ちゃんって彼氏いるの?」
「いませんよ。いたら、ここにはお邪魔してません」
「だよなー。俺さ、そんな真面目な君が好きなんだ。あっ、言っちゃった」
「椎名さん?」
「俺さ、どうしてもチャラチャラして見られちゃうんだよね。だから、寄ってくる女の子もみんな今どきの子って感じでさ、何か落ち着かないんだ」
「それって、わたしが今どきの子じゃないって事ですか? 私って、そんなに古臭い?」
「いや、そんな意味じゃないよ。見た目は今風だけど、芯が通っていて、年のわりにしっかりして見える。倉庫にいる子達って、こう言ったら失礼だけど、作業服着てるし、あまり髪の毛や化粧に気を配ってないだろ? そんな中、清美ちゃんはいつも艶々の髪をきちんと結んで清潔に見える。化粧っ気は無いけど、可愛い唇に引いたリップはちょっと色っぽくてさ、何かその……キスしたくなる」
「……」
「なーんてね。ごめん。こんな事言うから軽いって思われるんだよね」
「わたし、椎名さんに憧れています。あなたがいるから、働くのが楽しいって思って頑張ってこられたんです」
「えっ?」
「でも、このままでいさせて下さい。あなたに憧れる一社員として」
「清美ちゃん、俺と付き合ってくれないか?」
「ごめんなさい」
「どうして? 俺に好意を持ってくれてるんだよね?」
「はい。だけど、付き合えません」
怖かった。
会社のナンバーワンモテ男。
そんな人と付き合ったら、きっとまた彼を取り巻く女性陣からいじめられる。
それに、何の取り柄もないわたしに、彼もすぐに飽きるはず。
別れが来たら、もう会社にはいられない。
この関係を崩さないでいる為には、このままでいるのが一番なんだ。
「……何か事情があるんだね? 言いたくなければ聞かないよ。だけど、俺に好意を持ってくれている事がわかっただけでも良かった。これからも宜しくな」
「こちらこそ、宜しくお願いします」
「あのさ、友達としてまた今度どっかに食事に行こうよ」
「ありがとうございます。でも、会社の人には気づかれないようにお願いします」
「わかった。……それじゃ、ちょっとゲームでもする?」
「はい?」
部屋に戻ると、テレビ台の下から取り出したコントローラーを手渡された。
椎名さんと一緒にテレビゲームをして体を動かす。
卓球やテニスが出来るやつ。
家にゲーム機など一つも持っていないわたしは、コントローラーを扱うだけでも一苦労だった。
「そうそう。上手い上手い」
彼に褒められ、調子が出て来たわたしは、卓球で彼に一勝する事が出来た。
彼が手加減してくれたからだろうけど、それでも嬉しかった。
「清美ちゃんの笑顔って素敵だね」
体がかーっと熱くなる。
男の人からそんな事を言われるなんて今までに一度も無かった。
高校は女子高だったし、通信制の高校に変わってからはクラスに男の子はいたけど、過去に何かしらの挫折やトラブルがあった子が多く-----わたしを含め-----あまり話す事も無かった。
男の人に免疫が無いのだ。
椎名さんは言い慣れているかもしれないけど、わたしは聞き慣れていない。
そんな言葉をさらりと言われても、軽く流す事は無理だった。
意識してしまう。
やっと普通に話せるようになったと思ったのに、また自分の殻に閉じこもってしまいそうだ。
でも、ここで消極的な自分に戻るのは嫌。
椎名さんと、お友達としてまた会いたい。
「清美ちゃん? どうかした?」
「いえ、何でもないです」
「そう? びっくりした。急に黙り込むから」
「すみません。ちょっと疲れちゃったのかも」
「清美ちゃんって、スポーツとかしないの?」
「はい。完全にインドア派です。というか、一緒にスポーツする友達とかいなくて」
「だったら、嫌いじゃないんだね、スポーツ」
「ええ、まあ」
「オッケー。だったらもう少し涼しくなったら、テニスでもしようか?」
「椎名さん、テニスされるんですか?」
「テニスだけじゃないよ。スポーツ全般、見るのもやるのも大好きなんだ」
「そうなんですね」
「それじゃ、家まで送るよ」
一時間ほど彼の家で過ごし、家まで送ってもらった。
名残惜しかったけれど、ずっとこうしているわけにもいかない。
彼にバレないくらいの小さなため息をついて、助手席のドアを開け外に出た。
「今日は、本当にありがとうございました」
「またどっかに行こうな」
「はい」
車の中から手を振る彼にわたしも答えた。
さようなら。
楽しい時間をありがとう。
「ただいま」
「お帰り」
「ごめんね、遅くなって」
「ううんいいのよ。あなたが誰かと食事に行くなんて事なかったから、それだけでもお母さんは嬉しいの」
「……また今度、遊びに行くかも」
「ホント? で、どんな人?」
「お母さん、わたしに彼氏が出来たと思ってない?」
「えっ? 違うの?」
「違うわよ。会社の先輩。でも、とってもいい人。友達になってくれた」
「そう。あなたが楽しいならそれでいいわ」
「うん。それじゃ、お風呂入って来るね」
「ええ、ゆっくり入ってらっしゃい」
今日は本当に楽しかった。
椎名さんと食事して、家にお邪魔してデート気分を味わえた。
それから、二人っきりの状況でも、わたしに何もして来なかった。
やっぱりただの噂だったんだ。
これからは、友達として仲良くしてもらえる。
今まで以上に会社に行くのが楽しみになった。
だけど……
この傷を見たらどう思うだろう。
左手首の傷。
リストカット。
一生消える事のない過ち。
わたしはこの傷がある限り、誰とも結婚出来ないし、一人で生きて行くしかない運命なんだ。
それでも、死ななかった事に後悔はない。
生きてて良かった。
あの頃は、こんな未来が来るとは思ってもいなかった。
「わかりました」
わたしは今、お菓子を扱う会社の倉庫で働いている。
昨年四月に入社して、一年と三ヶ月が過ぎた。
そこでわたしは、ピッキングや検品、そして梱包と出荷までの一連の業務を担当していた。
ここにはわたしの過去を知る人は誰もいないので、本来の自分でいる事が出来た。
それでも最初は人が怖くて震えそうな日もあった。
上手く言葉が出てこなくて、自己嫌悪に陥る事もあった。
そんなわたしを助けてくれたのは、同じ部署で同期入社の大野めぐみだった。
彼女は男っぽい性格で、物事をはっきり言う性格だけど、とても優しく面倒見がいい。
わたしが困っているとすぐに手を差し伸べてくれる子だった。
「お疲れ様です。これ、友田チーフに言われて持って来ました」
「ありがとう」
「あっ……」
書類を渡す時に触れた温かい手の持ち主は、社内で噂の総務のプリンス、椎名純平さんだった。
聞くところによると、彼はわたしより十歳年上の二十九歳。
身長一八〇センチで、実際に見た事はないけれど、シャツを脱ぐと胸板が厚くがっちりとした体型らしい。
まあ、そんな姿を見るチャンスは、永久に来ないだろうけど。
もう一つ、悪い方の噂として、かなりの女ったらしだそうだ。
声を掛けた女の子は、例外無くものにしているらしい。
「清美ちゃんって、言ったっけ?」
「えっ?」
突然下の名前で呼ばれてドキッとした。
「会社に入って一年過ぎたよね? どう、今度お祝いに食事でも」
「ちょっと椎名君、また若い子を口説いちゃって」
「別に口説いているわけじゃありませんよ。いいじゃないですか。俺、彼女がいるわけじゃないし」
「だからって、来る人来る人に声を掛けなくてもいいでしょ。しかも、仕事中だし」
「リーダー、人聞きの悪い事言わないで下さいよ。まあ確かにみんなに声は掛けてますよ。だからって、ところかまわずってわけじゃありませんよ」
「小田ちゃんを誘ってたのは事実でしょ」
そう言って、眉間に皴を寄せているのは総務のお局様、和田美野里さん。
彼女は、今年四十歳になるそうだがとても若く見える。
大きな瞳にぷっくりとした唇。
年は離れているけど、会ったらいつも声をかけてくれる優しい先輩だ。
「小田ちゃん、彼の言葉なんか真に受けなくていいんだからね。嫌だったら無視しちゃっていいのよ」
「はい。それじゃ、失礼します」
とは言ったものの、実はわたし、椎名さんに恋をしている。
顔も好みだし、とても優しい人だ。
わたしが総務に行くと、必ずといっていいくらい声をかけてくれる。
「お疲れ様」とか、「今日も元気そうだね」とか。
きっと、誰にでも言っている言葉だ。
だけど、たとえ社交辞令であっても嬉しかった。
会社で彼の姿を見られるだけで幸せだった。
今のわたしの生き甲斐。
椎名さんと同じ職場で仕事が出来るという事。
それだけで十分だった。
それから数日後。
みんなの前じゃ返事がしにくいだろうと、休憩室でこっそり囁いてくれた。
「明日、イタリアンのお店を予約したんだ。清美ちゃんのお祝いさせてくれない?」って。
会社から少し離れた公園の入り口で待っていると、目の前に車が停まった。
わたしは、父親以外の男性の車の、しかも助手席に座るのは初めてだった。
それだけでもドキドキしているのに、隣にいるのは憧れの彼。
上下に動く肩を落ち着かせるのに必死だった。
少し落ち着くと、頬を撫でるクーラーの冷たい風に気がついた。
「涼しい」
「今日、暑かったもんな」
梅雨が明け、季節は一気に夏になった。
一年中長袖を着ていないといけないわたしには辛い季節だ。
それでも、腕の傷は誰にも見せられなかった。
「清美ちゃんって、夏でも長袖だよね。暑くないの?」
「肌が弱いから、焼きたくないんです」
本当は半袖やノースリーブのシャツが着たい。
だけど、手首をさらす事は出来なかった。
「そうなんだ。だったら泳ぎには行けないね」
「そうですね」
「残念。君の水着姿を見てみたかったのに」
「……」
「あっ、ごめん。ここに和田リーダーがいたら、また怒られるな」
店に入っても、緊張でぎこちないわたしをリラックスさせようと、彼はいつも以上に饒舌だった。
そんな彼の気遣いに、わたしの心もいつの間にかほぐされていく。
食事を済ませ、再び彼の車の助手席に座る。
お店にいたのは一時間ほどだったけれど、車内はすっかり外の気温と同化していた。
「どう? これからうちに来ない?」
「はい」
何故だろう。
わたしは警戒する事もなく、彼の誘いを受け入れた。
周りから軽い男、誘った女はみんなものにする。
そう聞かされてはいたけれど、わたしの心に危険を察知するアラームは鳴っていない。
男性経験がないからわからないのか。
それとも、自分の本能が正しいのか。
一つだけ言える事は、まだ彼と離れたくないという事だった。
「どうぞ」
「お邪魔します」
開けたままの状態のカーテンは、タッセルできちんと束ねられていた。
これが彼の日課なのだろう。
わたしは、自分の部屋のカーテンは開けるけど、きちんととめた事が無かった。
どちらかというとずぼらな性格だ。
父親がわりと神経質で、注意される事が多い。
それに比べて母親は、わたしに似て片付けが下手だ。
……違う。わたしが母に似たんだ。
あれっ?
思わず駆け寄る。
「海?」
「外に出ようか」
ベランダに出ると、もっと海が近づいた。
磯の香りも漂って来る。
彼の部屋は、十階建てのマンションの五階部分にあった。
マンションの前に海に沿った道があり、その先に一メートルより少し高い防波堤がある。
海はその先だ。
マンションの一階部分が駐車スペースで、住居は二階から始まる。
たとえ二階に住んでいたとしても問題なく海が見渡せる高さだ。
海好きにはたまらない物件。
夜なので、水面は黒くて良く見えなかったけれど、月の明かりで波の輪郭が時折光る。
右側に突き出した岬の先端には、灯台の明かりが見えた。
「ここって、海のすぐ傍だったんですね」
玄関は反対側にあるので、ここまで海が近いとは思っていなかった。
「オーシャンビュー。俺、海が好きでさ、住むなら絶対海のそばがいいって決めてたんだ」
「わたしも好きですよ。山より海派です」
「良かった、気が合って。どう? ワインでも」
「椎名さん、わたし未成年ですから」
「いいじゃん、二人しかいないんだし」
「ダメです。それに、わたしお酒弱いんです」
「って、飲んだ事あるじゃん」
「実は、ちょこっと」
「……まっ、いいか。無理には勧めないよ。それじゃ、ジュース持って来る」
そう言うと彼は部屋に戻り、グラスに注いだオレンジジュースを持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
「清美ちゃんって彼氏いるの?」
「いませんよ。いたら、ここにはお邪魔してません」
「だよなー。俺さ、そんな真面目な君が好きなんだ。あっ、言っちゃった」
「椎名さん?」
「俺さ、どうしてもチャラチャラして見られちゃうんだよね。だから、寄ってくる女の子もみんな今どきの子って感じでさ、何か落ち着かないんだ」
「それって、わたしが今どきの子じゃないって事ですか? 私って、そんなに古臭い?」
「いや、そんな意味じゃないよ。見た目は今風だけど、芯が通っていて、年のわりにしっかりして見える。倉庫にいる子達って、こう言ったら失礼だけど、作業服着てるし、あまり髪の毛や化粧に気を配ってないだろ? そんな中、清美ちゃんはいつも艶々の髪をきちんと結んで清潔に見える。化粧っ気は無いけど、可愛い唇に引いたリップはちょっと色っぽくてさ、何かその……キスしたくなる」
「……」
「なーんてね。ごめん。こんな事言うから軽いって思われるんだよね」
「わたし、椎名さんに憧れています。あなたがいるから、働くのが楽しいって思って頑張ってこられたんです」
「えっ?」
「でも、このままでいさせて下さい。あなたに憧れる一社員として」
「清美ちゃん、俺と付き合ってくれないか?」
「ごめんなさい」
「どうして? 俺に好意を持ってくれてるんだよね?」
「はい。だけど、付き合えません」
怖かった。
会社のナンバーワンモテ男。
そんな人と付き合ったら、きっとまた彼を取り巻く女性陣からいじめられる。
それに、何の取り柄もないわたしに、彼もすぐに飽きるはず。
別れが来たら、もう会社にはいられない。
この関係を崩さないでいる為には、このままでいるのが一番なんだ。
「……何か事情があるんだね? 言いたくなければ聞かないよ。だけど、俺に好意を持ってくれている事がわかっただけでも良かった。これからも宜しくな」
「こちらこそ、宜しくお願いします」
「あのさ、友達としてまた今度どっかに食事に行こうよ」
「ありがとうございます。でも、会社の人には気づかれないようにお願いします」
「わかった。……それじゃ、ちょっとゲームでもする?」
「はい?」
部屋に戻ると、テレビ台の下から取り出したコントローラーを手渡された。
椎名さんと一緒にテレビゲームをして体を動かす。
卓球やテニスが出来るやつ。
家にゲーム機など一つも持っていないわたしは、コントローラーを扱うだけでも一苦労だった。
「そうそう。上手い上手い」
彼に褒められ、調子が出て来たわたしは、卓球で彼に一勝する事が出来た。
彼が手加減してくれたからだろうけど、それでも嬉しかった。
「清美ちゃんの笑顔って素敵だね」
体がかーっと熱くなる。
男の人からそんな事を言われるなんて今までに一度も無かった。
高校は女子高だったし、通信制の高校に変わってからはクラスに男の子はいたけど、過去に何かしらの挫折やトラブルがあった子が多く-----わたしを含め-----あまり話す事も無かった。
男の人に免疫が無いのだ。
椎名さんは言い慣れているかもしれないけど、わたしは聞き慣れていない。
そんな言葉をさらりと言われても、軽く流す事は無理だった。
意識してしまう。
やっと普通に話せるようになったと思ったのに、また自分の殻に閉じこもってしまいそうだ。
でも、ここで消極的な自分に戻るのは嫌。
椎名さんと、お友達としてまた会いたい。
「清美ちゃん? どうかした?」
「いえ、何でもないです」
「そう? びっくりした。急に黙り込むから」
「すみません。ちょっと疲れちゃったのかも」
「清美ちゃんって、スポーツとかしないの?」
「はい。完全にインドア派です。というか、一緒にスポーツする友達とかいなくて」
「だったら、嫌いじゃないんだね、スポーツ」
「ええ、まあ」
「オッケー。だったらもう少し涼しくなったら、テニスでもしようか?」
「椎名さん、テニスされるんですか?」
「テニスだけじゃないよ。スポーツ全般、見るのもやるのも大好きなんだ」
「そうなんですね」
「それじゃ、家まで送るよ」
一時間ほど彼の家で過ごし、家まで送ってもらった。
名残惜しかったけれど、ずっとこうしているわけにもいかない。
彼にバレないくらいの小さなため息をついて、助手席のドアを開け外に出た。
「今日は、本当にありがとうございました」
「またどっかに行こうな」
「はい」
車の中から手を振る彼にわたしも答えた。
さようなら。
楽しい時間をありがとう。
「ただいま」
「お帰り」
「ごめんね、遅くなって」
「ううんいいのよ。あなたが誰かと食事に行くなんて事なかったから、それだけでもお母さんは嬉しいの」
「……また今度、遊びに行くかも」
「ホント? で、どんな人?」
「お母さん、わたしに彼氏が出来たと思ってない?」
「えっ? 違うの?」
「違うわよ。会社の先輩。でも、とってもいい人。友達になってくれた」
「そう。あなたが楽しいならそれでいいわ」
「うん。それじゃ、お風呂入って来るね」
「ええ、ゆっくり入ってらっしゃい」
今日は本当に楽しかった。
椎名さんと食事して、家にお邪魔してデート気分を味わえた。
それから、二人っきりの状況でも、わたしに何もして来なかった。
やっぱりただの噂だったんだ。
これからは、友達として仲良くしてもらえる。
今まで以上に会社に行くのが楽しみになった。
だけど……
この傷を見たらどう思うだろう。
左手首の傷。
リストカット。
一生消える事のない過ち。
わたしはこの傷がある限り、誰とも結婚出来ないし、一人で生きて行くしかない運命なんだ。
それでも、死ななかった事に後悔はない。
生きてて良かった。
あの頃は、こんな未来が来るとは思ってもいなかった。