海は、絶え間なく砂をさらった。押し寄せては返し、押し寄せては返し、そうして、誰かがつけた足跡を、転がった綺麗な石を持ってゆく。後には何も残さないか、それか、どこかのくそ野郎の捨てたゴミを放る。

 音はときに猛々しく、ときにゆるやかで、優しげ。

 母親の腹の中の音と、同じだと聞いた。

 男は、だからここで死のうと思った。

 恋人が死んだから? そうかもしれない。

 そうかもしれないけれど——

 その実、男はすでに、自分が死ぬ理由を考えるのをやめていた。恋人が死んだ。彼にとっては、それはきっかけなのだ。理由は、ほかにも、幾らでもあった。だから、理由探しなんていうものには、もう意味がなかったのだ。探しても、探しても、思い当たる節が多すぎる! キリがない。

 ただ、息を吸うたびに肺が唸り、喘ぎ、血管が震える、血の気がひいていく——息を吐くたびに、ひどく沈み、力が失せ、そうして、気を失いたくなる。
 今の彼にとっては、死ぬ理由なんていうのは、それだけでよかった。

 生きていたくなくなった、だから、死ぬ。明瞭、猿でもわかる、赤ん坊だって納得する。

 波の音を聞きながら、しかし、男は、ぼうっと、恋人のことを考えた。
 今死ねば……このくだらない世界とおさらばできて、なおかつ、彼女にまた会えるのだ。
 
 男は、ゆっくり、瞼を閉じた。
 まだ、覚悟ができていない? そんな、馬鹿な。僕は、完璧に……完璧に、死ぬ準備を整えたはずだ……。





「ねえ、×××」
「なんだい」
「無事に帰ってきてね」
「保証はできないな」
「貴方は死にたがりだもの。まさか、自分から砲弾に突っ込んで行ったりしないよね?」
「君がいてくれる間はね」

 そういうと、男の恋人は笑った。

「じゃあ、私、生きてみる。頑張って。きっと——空爆なんかで吹き飛んだりしない」
「そうしてくれると、ありがたいな」

 そうだ、男は、昔から死にたがりだった。大人になるにつれ、世界平和の不可能を知り、尊敬していたシスターの邪悪を知り、そうして、生命の意義を見失った。少なくとも、彼女に会うまでは。

 底抜けに明るい女性、聡明で、それでいて健気で優しく——というのは、男の贔屓目だったけれど。とにかく、そのくらい、男は彼女を愛していた。彼女がいれば、男はいつまででも生きていられた。

 空爆なんかで吹き飛んだりしない……男は、愛する女性の言葉を信じた。戦場で戦い、——死なないように戦って、街へ帰った。

 廃墟の街へ。


 遺品は、ぐちゃぐちゃに変形した鍵だけだった。折り重なった、人の形を為さない死骸の中から、恋人を見つけるなんてことは、誰にも不可能だった。

 
 そうして、男は死のうと決めた。
 生命の意義は、自分で決めるものだ。
 意義がないなら、死んでもいいのだ。

 波が砂を攫う。
 優しい音がする。
 
 目をゆっくりとあけて——

 結局その日、男は死ねなかった。