ゆっくりとこちらを振り返った黒髪の男と目が合った瞬間、背筋が凍り付くような恐怖が美鈴を襲った。

 瞬間的に身をひるがえした美鈴が必死にドアへと伸ばした手は、彼女をここまで連れてきた召使いの青年によっていとも簡単に捉えられてしまう。

「……離してっ!」

 後ろ手に手首を抑えられ身をもがく美鈴を、青年は眉をひそめ、どこかこわばった表情で見つめている。

「そんなに慌てて逃げなくても……別にこの場であなたをとって食べようとは思ってもいませんよ」

 クックク、とひとりでにこぼれる笑いを押し殺すような声を上げて、黒髪の青年は美鈴に一歩ずつ近づいてくる。

「お久しぶりです。……あなたが、ルクリュ家のご令嬢だったのですね」

 美鈴の顎を細い指先で持ち上げ、グッと顔を近づけながら彼は囁いた。

「以前、ブールルージュであなたを見かけた日から……忘れたことはありませんでしたよ。……いつかどこかでお会いできると信じていました」

「なぜ、あなたがここに……? アルノー伯爵の名を騙って何をしようというの!?」

 精一杯の勇気を振り絞って美鈴は男に問いただした。

「強がっても、声が震えていますよ……」

 男の指が、美鈴の唇をツッとなぞった。――一滴の血さえ通っていないのではないかと思わせるような白い指は氷のように冷たい。

「さるお方のご依頼で、あなたにはしばらく私にお付き合いいただきます」

 美鈴の瞳をじっくりと覗き込みながら男は続けた。

「大人しくしていただければ別段危害は加えません。私たちの目的はあなた自身ではなく……あなたの名誉を傷つけることにあるのです」

 薄い唇を弓のようにそらせて、男は悪魔的な笑みを浮かべた。

「貴族の令嬢が……何者かに攫われ、一晩を過ごす。結婚前の令嬢にとってこれほどのスキャンダルはないでしょう」

 男の卑劣な計画を知って、美鈴の顔が青ざめた。

「……そんな。誰が何の目的で……!」

 たじろぐ美鈴を冷徹に眺めながら、男は再びクスリと笑った。

「あなたはどうも無自覚すぎるようだ。他人の目に自分がどんな風に映っているのか――それではこの貴族社会では生きて行けまい」

 そう言う男の瞳の昏さ――感情を見せない瞳の闇の深さを覗き見て、美鈴は肌が粟立つような感覚を覚えた。

「――純粋さだけでは、この世界では生きていけないのですよ。私の大嫌いな……この見栄と欲得に支配された貴族たちの世界ではね」

 そう言って男は美鈴から身体を離すと、懐から小さな小瓶と絹のハンカチを取り出した。

 ――薬を嗅がせるつもりだ……!

「や、やめっ……」

 男の思惑に気づいた美鈴は声を上げて助けを求めようとしたが、後ろから手首を抑えていた青年によって口を塞がれてしまう。

 白く冷たい手がスローモーションのようにゆっくりと美鈴のすぐ目の前まで迫ってきていた。