皆を心配させないためにも、屋敷の人々が起き出す前に戻りたい――。

 そう思った美鈴はすっかり明るくなった空の下、屋敷に向かって馬を走らせた。

 まだ、頬のほてりが冷めないような気がする――。

 風を切って進む間にこの熱を冷まさなくては――いつもの冷静な自分に戻らなくては……。

 ゆるい丘陵を駆けのぼり、林道を通り抜けて屋敷への道を急ぐ。

 馬小屋に着いた頃には、だいぶ汗をかいていた。

「……朝早くから、ありがとう」

 小屋に戻した芦毛の馬の鼻面をそっと撫ぜると馬は小さくいなないた。

 シャツの首元のリボンを緩め、乗馬用の帽子をとって、美鈴は屋敷の裏口に向かって歩いていく。

 ガチャリ……

 そっとドアを開けて中に滑り込もうとしたその時。

 ――ドアが動かない?

 開いたドアが何かに引っ掛かったようにびくともしない。

「おはよう、ミレイ」

 扉の影から聞こえてくる、低いけれどよく響く声……見上げるとリオネルが片手でドアを抑えてニヤニヤと笑っていた。

「……こんな朝早くからどこに行っていたんだ?」

 グリーンとブラウンのヘーゼルグリーンの瞳がじっと探るように美鈴の瞳を覗き込んでいる。

「……ちょっと朝の空気を吸って来ただけよ」

 素っ気なくそう答えてドアを閉めようとしたけれど、リオネルに押さえられた扉は美鈴の力ではびくともしなかった。

「それにしては、遠くまで行ってきたようだが……」

 今はだいぶ汗が引いてきたもののまだいくぶんか上気した頬、風に吹き乱されてた髪、汚れたブーツにさっと目を走らせながらリオネルは言った。

「ちょうど今、コーヒーでも淹れようと思って湯を沸かしている。一杯くらい付き合ってくれないか?」

 そこまで言われて断る理由もなく、美鈴はリオネルと共に外のテーブルに移動した。

 目の前で手際よく淹れられたのコーヒーの目の覚めるような香りがあたりに広がる。

「……ありがとう。いただきます」

 美鈴は目の前に置かれたカップを手に取ると一口、コーヒーを飲んだ。濃い目に入れられたコーヒーの芳醇な味が口いっぱいに広がる。

 ……意外、何も聞いてこないのね……。

 ちら、と顔色をうかがうと、リオネルは美鈴の予想を裏切ってどこかリラックスしたような表情を浮かべている。今朝のことを問いただす気はとりあえずはなさそうだ。

 ふう、とひと息ついてから、美鈴は再びカップを持ち上げてコーヒーをゆっくり味わった。

 そのしぐさを見るともなく見つめながらリオネルはいきなり確信に触れた。

「……フェリクスと会って来たのか?」

「……!」

 ゴクリ、とコーヒーを何とか飲み下してから、美鈴はリオネルを上目遣いに睨んだ。

「図星かな……?」

 流し目で美鈴を見つめてから、リオネルは澄ました顔でコーヒーを啜った。

「……まさか、後をつけてたとか?」

 美鈴が疑いの目を向けるとリオネルはとんでもない、というように片手を上げた。

「そんな無粋なこと、俺がするものか……なんとなく、そんな気がしただけだ」

 コーヒーの香りを愉しむようにゆっくりと味わいながらリオネルは美鈴に尋ねた。

「君とフェリクスはよくよく縁があるらしいな。あのブールルージュの森の時も、今回も」

「……そんなこと」

 ない、とはいえなかった。美鈴自身も不思議な巡り合わせを「ただの偶然」と言い切れなくなっている。

「ハッキリ聞く。……君は、フェリクスのことをどう思っている?」

 リオネルの熱い視線が自分に注がれている。その瞳を見返すことは美鈴にはできない。

「どうって言われても……。よく分からないわ。ただ」

 この夏、フェリクスと過ごした日々を思い起こしながら、美鈴は慎重に言葉を選んだ。

「不思議な人。貴公子然としているけど本当はどこか寂しさを抱えているような……」

 美鈴が顔を上げるとリオネルが瞳を丸くしてこちらを見ていた。

「……何? どうしてそんな顔――」

 慌てて問いかける美鈴を前にリオネルは盛大に噴き出したかと思うと、顔に片手を当てて笑い出した。

「……パリスイの社交界でフェリクスに憧れている令嬢たちは多い。あれほどの美形で伯爵家の御曹司だからな」

 あっけにとられている美鈴の前でひとしきり笑って見せた後、リオネルは笑いを抑えながらそう答えた。

「その、フェリクスを……そんな風に言う女性はきっと君以外にいないだろう。アリアンヌ殿に聞かせてやりたいな」

「アリアンヌ様?」

 以前パーティーで会話をした侯爵令嬢の名前が出てきたことに美鈴は思わず首を傾げた。

「――公表はされていない。まだ、内々の話なんだろう」

 そう前置きしてから、リオネルは続けた。

「侯爵家のアリアンヌ殿と伯爵家のフェリクスの婚約の話が進んでいるらしい。まだ、風のうわさで聞いた程度だが」

 侯爵令嬢 アリアンヌ――。

 フォンテーヌ侯爵夫人邸の舞踏会で見た彼女の鮮やかなドレス姿が美鈴の目に浮かんだ。

 ……あの人がフェリクスを……。

 気品と優美さを兼ね備えた若く美しき侯爵令嬢――。

 フェリクスの隣に並んでもきっと見劣りしない、それどころか、この上なく似合いの二人に思える。

「まあ、社交界を避けている気まぐれのフェリクスのことだ、どうなることだか……」

 そう言いつつ、リオネルは美鈴の反応をじっとうかがっているようだった。

「そうなの、それは……おめでたい話ね」

 アルノー伯爵家は、侯爵家と婚姻を結ぶことでさらにその地位を固めることができる。

 相手も、家柄も申し分ない。この縁談を断るだなんて到底考えられない。

「ミレイ……」

 リオネルが膝の上に置いた美鈴の手に自らの手を伸ばして軽く触れた。

「……君が、フェリクスに気がないのなら、それでいい」

 椅子から腰を浮かせて、リオネルは美鈴の耳元に口を寄せて囁いた。

「君には、俺がいる。……君の気持ちが決まったら、俺はすぐにでもルクリュ子爵に申し出る……結婚の許しをもらいたいとな」