狩猟小屋で朝を迎えたあの日から三日目。

 明日は、パリスイへ帰るという日の早朝。

 朝の早い農民たちでさえまだ眠っているような早朝に目覚めてしまった美鈴は再び寝付くことができずベッドの中でもぞもぞと寝返りを繰り返していた。

 ――何かしら。こんなことは今までなかったのに。

 眠ることをあきらめて、ため息をついてベッドから起き上がると部屋のカーテンから外を覗いてみる。

 夏の早朝、小さな白い星がいくつか瞬く空は、濃紺から薄青へのグラデーションを描きながら、緩やかに広がる緑の大地の上に広がっていた。

 少し寂しげな、でも目が離すことができないほどの美しさ――。

 刻々と変わりゆく空の情景は、窓から見ているだけではもったいないような気さえしてくる。

 ――明日は、パリスイに戻る。

 この美しい景色も見納めなのだと思うと、胸の奥からじんわりと郷愁が湧いてきた。

 美鈴は、手早く身支度を済ませると、家人を起こさぬよう注意深く廊下を渡り階下へと急いだ。

 裏口の扉を開けると、冷たいけれど爽やかな朝の空気が部屋に流れ込んでくる。

 早朝の庭に滑り出すと乗馬用のブーツで朝露に濡れた草をサクサクと踏みしだきながら、美鈴は一人馬小屋に向かった。

「いい子ね、朝から悪いけれど、ちょっと付き合ってね」

 芦毛の馬に軽く声をかけて、鞍を置き、手綱をつけて出発の用意をすると、馬は心得たように軽くいなないた。

 草原へ駆け出すと、まだ明けやらぬ薄青い空の下、朝もやがヴェールのように薄くたなびいている。

 先ほどよりも東の方角が随分明るい。眩しいオレンジ色に染まる地平線を見つめて、美鈴はほうっとため息をついた。

 一人で馬に乗って出かけるのは久しぶりだった。

 リオネルが訪ねて来てからというもの、乗馬の時は必ず彼が供をすると申し出た。

 ここ数日間はどこに行くにも――乗馬をするのも、村を訪ねるのも、紅茶を飲むのもずっと一緒。

 むしろ、連日彼に連れまわされているような状態だった。

 同じ屋敷で暮らしている以上、ある程度は当然とは思うけれど、それ以上に――ほとんど一日中といっていいほど、彼と過ごす時間は長かった。

 何をするにもリオネルの視線――彼のヘーゼルグリーンの瞳が自分を見つめていることを意識せずにはいられなかった。

 自分を心配してくれていることは重々承知していたけれど、一方でフェリクスとの仲を勘ぐられているのかと思うと美鈴は少々やるせない気持ちにもなるのだった。

 たった一人、つめたい風を切って朝焼けの中を駆け抜けるのは爽快だった。

 ひとしきり馬を走らせた後、ふとある考えが浮かんで美鈴は東の方角へ馬を向かわせた。

 その先には澄んだ水が満ちる、フェリクスと再会したあの湖がある。

 ……ここを去る前に、やはりもう一度見ておきたい。

 そんな思いに駆られて美鈴は一路森を目指して駆けた。

 森の木立が見えてくるころには東の空もだいぶ明るくなってきていた。

 影絵のようにぽっかりと浮かぶ森に少しずつ朝日が差してゆき、湖面が金色の波を湛えている。

 馬を降りると、先日ここに訪れた時と同じように湖畔を巡る小路をゆっくりと歩き出す。

 木の間から降る朝日が、森の風景をより一層幻想的なものにしていた。

 湖がよく見える、木立が途切れた見晴らしの良い場所に立って、美鈴はしばらくの間金色に光る湖面をじっと見つめていた。

 ざっ、ざっ、ざっ……

 下草を踏んでこちらに近づいてくる音が聞こえてきて、美鈴は驚いて今自分が歩いてきた小路の方を振り返った。

 こんな朝早くに、一体誰が……?

 もしかして、リオネルが気づいて追ってきた……とか?

 あれこれと考えを巡らせながら、美鈴は目を凝らしてこちらに歩いてくる人物を見定めようとした。

 リオネルでは……ない。

「ミレイ殿……?」

 亜麻色の髪が朝日に照らされてキラキラと輝いた。

 アイスブルーの瞳が、大きく見開かれて美鈴の姿を映し出す。

「フェリクス様……」

 朝駆けをしたのはほんの思いつき、この場所を選んだのも気まぐれのはずだったのに……。

「こんなところであなたに会えるとは……思ってもみなかった」

 フェリクスは眩しいものでも見たように目を細めた。

「あの後、馬をお届けに私もお屋敷に伺ったのですが、……挨拶もできず」

 もしかしたら、フェリクスが現れるかもしれない。

 そんな予感から芦毛の馬が連れられてくるのを秘かに待っていた美鈴だったがなんだかんだとリオネルにつきあっているうちに馬は屋敷に戻され、その時対応した召使いは「ヴァンタール家の方が……」としか言わなかった。

「……すみません、わざわざいらしていただいたのに……」

 心底すまなさそうに顔を伏せる美鈴にフェリクスは首を振った。

「どうぞ、お気になさらず。……でも、ここであなたに会えてよかった」

 金色の朝日に照らされて長い睫毛は透き通り、アイスブルーの瞳はいよいよ澄みきっている。

 ……何て綺麗……。

 ふんわりと優美な微笑みを浮かべたフェリクスに思わず見惚れそうになった美鈴は慌てて次の言葉を探した。

「……フェリクス様も、朝駆けに?」

 慌てるあまり聞かずもがなのことを聞いてしまった美鈴の問いにフェリクスはこくりと頷いた。

「このところは、毎日。もうすぐ、私もパリスイに戻るので。名残を惜しみに」

 ふとした思いつきでこの湖を訪れた……そうしたら、ここであなたに会うことができた。

 そう静かに語るフェリクスの青い静かな瞳は控えめに、しかし真っすぐに美鈴に向けられていた。

「わたしたちも、明日パリスイに戻ります……だから……わたしもこの湖も見納めと思って……」

 美鈴の言葉にフェリクスが楽しそうにクスリと笑った。

「……では、同じことを考えていたのですね。私とあなたは」

 波一つないまっさらな水面にぽつんと落ちた水滴がじわじわと波紋を広げるように、そのひと言は美鈴の胸にさざ波をたてていく。

 ほんの、偶然の出来事。それを、意味のあるものに変えてしまう感情――特別な何かに変えてしまう何かが、美鈴の中に生まれつつあった。

「……そうかもしれませんね」

 自分でもどうしていいかわからない。なぜか、急に頬が熱くなった。そんな顔を見られるのが恥ずかしくて美鈴は湖を眺める素振りで、フェリクスから顔を背けた。

「ミレイ殿……そのままで聞いてください」

 ほんの少し、緊張をはらんだ声でフェリクスが続けた。

「私は、パリスイに帰った後も、あなたと会いたい……!」

 心臓が奏でる鼓動のせいだろうか、フェリクスの声がほんの少し遠く聞こえる。

「今度、宮廷劇場でアルノー家も後援する歌劇の舞台があります。……あなたをご招待したい」

 美鈴の様子をうかがっているのだろうか。フェリクスはほんの少し間をおいて決心したように言った。

「……ミレイ殿。来ていただけますか?」

 フェリクスの問いに、美鈴はそっと彼を振り返った。

 そこに佇んでいるのは貴公子然とした美しい青年――それなのに、今の彼は子供のように不安げな表情を浮かべている。

「……参ります、必ず」

 美鈴は彼の瞳を見つめてはっきりとそう答えた、その瞬間、フェリクスは心底ほっとしたように――安らいだような美しい笑顔を見せた。