――畑は見渡す限り無人に見えた。そうでなくてもこの時間、村人たちは中央広場に集まっているはずなのに……。

あまりにびっくりしたせいでこぼれそうだった涙がひっこんだ。

 一瞬、空耳かと思ったフェリクスだったが涼やかな声は決して聴き間違いではない。

 不審気に辺りをキョロキョロと見回していると、隣の畝のラベンダーの茂みから少女がこちらを見つめているのに気づいた。

「待ってね」

 ひと言そう断ってから、丈の高いラベンダーの茂みをかき分けて、少女がフェリクスの目の前に現れた。

 二、三歳は年上だろうか。すらりとした少女の背は、フェリクスよりも頭一つ分以上は高そうだ。

 彼女が動くたびに長い黒髪がサラサラと肩から流れ、ペールブルーのドレスの裾がふんわりと揺れる。

「大丈夫? 転んだの……?」

 少女がフェリクスを覗き込むように腰を屈めた。緑の大きな瞳がフェリクスをじっと見つめている。

「……別に、大したことはないです」

 プイと顔を背けフェリクスは精一杯の意地を張った。

 しかし、擦りむいた膝小僧はジンジンと痛むし、誰にも告げずに一人で遠くまで来てしまったことを正直なところ少し後悔し始めていた。

「でも、血が出ちゃってるわよ、足……」

 投げ出したままのフェリクスの足を一目見て少女は眉をしかめた。

「だめよ、このままにしては。傷口からばい菌が入ったら、大変」

「そんなものべつに怖くなんか――」

 なおも、抵抗しようとするフェリクスに少女が真剣な顔で迫った。

「以前読んだ小説に書いてあったわ。怪我した後に傷口をそのまま放っておいて、足が腐っちゃった人の話!」

 いかにも恐ろしそうな表情で、声をひそめながらも臨場感たっぷりに少女は語った。

「最初は、大したことのないような傷だったのに、そのうち足がぱんぱんに腫れてね……。最後は、お医者様がのこぎりみたいに大きな刃で……」

 フェリクスは想像した――見るも無残に腫れあがった足はきっと今の数倍も痛いだろう。そしてその足を切り落とそうとするのこぎり刃を持った悪魔のような医者――—。

 思わず、ゴクリと唾を飲んだ。そんな目にあうのは絶対に御免だ。

「……ね、コワいでしょ? だから、一緒に来なさい。わたしが手当してあげる」

 一転して天使のような可憐な笑顔を少女は浮かべた。

「さ、こっちへ」

 先に立ち上がると、フェリクスに向かって白くすべすべとした手を伸ばす。

 フェリクスが恐る恐る触れたその手は温かくて柔らかだった。

「わたしは、ミレーヌ・ド・ルクリュ。今日は、侍女のジャネットとお祭り見物に来たの」

「……僕は、フェリクス……フェリクス・ド・アルノー」

 無様なところを見られてしまった――。その気恥ずかしさからか、フェリクスはミレーヌの顔がまともに見れなかった。

 隣を歩くミレーヌから顔を背けて、ややぶっきらぼうにそう答えた。

 そんなフェリクスを気にも留めずミレーヌはラベンダ―畑をフェリクスの歩幅に合わせて歩いていく。

 農道の途中に一台の馬車が止まっており、その近くに一人の女性の姿が見えた。

 馬車の周りを行ったり来たり、何やら所在なげな様子でじっと畑を見つめている。

「ジャネット――!」

 ミレーヌが手を振るとジャネットと呼ばれた女性がスカートを持ち上げて息せききってこちらに駆けてきた。

「お嬢様! 随分お探ししましたよ!」

 急いで走ってきたために荒い息を吐き、頬をほんのりと紅く染めたジャネットは、すぐにミレーヌの隣のフェリクスに気づいてまじまじとその顔をみた。

「お嬢様、その方は……?」

「フェリクスよ。……ねえ、ジャネット。救急箱を用意して。急いで、手当をしてあげなきゃ」

 フェリクスの足のケガを一瞥すると、ジャネットは頷いて馬車に向かって身を翻した。

 馬車に積んであった消毒薬や傷薬を使って、実に手際よくミレーヌはフェリクスの傷の手当をてした。

 傷口をガーゼと包帯で覆ってしまえば、先ほどよりは随分痛みがマシになったような気がする。

「ほら、もう大丈夫……」

 手当てを終えて救急箱をジャネットに渡しながら、にっこりと笑ったミレーヌをフェリクスはまじまじと見つめた。

 一見したところ、良い家の貴族の子女のように思えるのに、あまりの手際の良さと気さくさにフェリクスは多少面食らっていた。

「……あなたは、医学の勉強をしておられるのですか?」

 驚きのあまりフェリクスの口から漏れたややとんちんかんな質問に、ミレーヌは目を細めながら答えた。

「いいえ、勉強したことはないわ。ただ、やんちゃな幼馴染がいてね、その子の手当てをするうちに慣れちゃっただけよ」

「ミレーヌ様ご自身も、お転婆なほうでいっらっしゃいますけれどね。……お薬を用意していてよかったこと」

 からかう様に、年若い侍女がちゃちゃをいれると、ミレーヌは「それもそうね」とあっさりとその事実を認めた。

 こんなところも、フェリクスが知っている貴族の令嬢達とはだいぶ印象が違う。

 やたら気取り屋で気位が高い女の子、もじもじするばかりで一人では何もできない女の子。

 今までに出会った貴族の女の子たちとは大分違う……。

 それが、フェリクスはミレーヌに初めて会った時に感じた印象だった。

「このまま、馬車で村まで行けばいいわね。――お祭りを見学に来たんでしょう?」

 ミレーヌの問いに、フェリクスはこっくりと頷いた。なぜだか、もうミレーヌに対して意地を張る気は起きなかった。