――その少女は黒髪に深いグリーンの瞳をしていた。

 フェリクスが最初に彼女と出会ったのは、十二年前の夏、花まつりの日。

 祭りで賑わいを見せる村の明るい雰囲気とは対照的にフェリクスの気持ちは重く沈んでいた。

 本当なら、祭りに来るよりもヴァンタール家の屋敷に残りたかった。

 楽し気に行きかう人々や街のあちこちに飾り付けられた華やかな装飾を見ても少しも心が浮き立たないどころか、余計に心が塞ぐ気さえする。

 ひとつ年上のジュリアンは父親のヴァンタール子爵に連れられてあちこちにあいさつ回りをしている。

 フェリクスも一緒に来るように声をかけられたものの、気乗りがしない彼はそれを断って広場をぶらぶらと歩いていた。

 ――お母さまは、今年はおいでにならないのですか……。

 唇を震わせ、大きな目を見開いたフェリクスがそう尋ねた時、ヴァンタール子爵が一瞬見せた困ったような表情がふと思い出される。

 その時受け取った母からの手紙は今もフェリクスの上衣のポケットに入ったままだ。

 ……愛するフェリクスへ――

 美しい筆跡で綴られた手紙。

 愛情がこもった言葉が並べられていても、どこか嘘の匂いがする手紙。

 母方の伯爵家の親類であるヴァンタール家の領地で夏を過ごすのは毎年の恒例行事となっていた。

 夏の初め、ヴァンタール家のジュリアンと共にフェリクスはパリスイを後にする。

 普段大都会の屋敷で暮らしているフェリクスにとって旅行用の馬車での移動や通り過ぎる村々の地方ごとに特徴のある生活風景は興味深いものだった。

 まだ9歳の少年にとっては心躍る冒険の日々。

 ただ、それもいつも途中で合流する母親の存在あってこその楽しさだった。

 馬車のドアが開き、一輪の花のような白いレースの日傘が屋敷の庭に現れるとき――。

 日傘を少し傾けて薄いブロンドの髪が風になびき、形のよい唇が「フェリクス」と言って笑う。

 普段離れて暮らしている母と過ごす夏は、フェリクスが一年の中で最も待ち望んでいる季節だった。

 ――夏になれば、お母さまに会える。

 それを心の支えにパリスイの屋敷にいる間、厳しい父親の言いつけを守り勉学に励み続けた。

 実業家として名高い父はいつも長期の商用旅行や領地の監督で地方に出向いており、中々家に寄りつかない。

 むしろ、パリスイの屋敷に帰ることを、そこにいるフェリクスと顔を合わせることを避けているふしさえあった。

 本当に時たま――パリスイのアルノー伯爵家で父の姿をみることがあってもそれはほんのひと時で、父はフェリクスの顔を見ても無表情に顔をこわばらせるだけった。

「フェリクスか。……しっかり、勉強しているか?」

 父親のいつも同じ問いかけにフェリクスも律儀に同じ答えを返す――「はい、もちろんです。父上」

 びっしりと隙間なく埋められた毎日のスケジュール。入れ替わり立ち替わり訪れる家庭教師たち。

 冬も、秋も、春も。ずっとフェリクスは夏を待っていた。待ち焦がれていた。

 ――それなのに。

 鼻の奥がツンとする。じわり、と涙がこみ上げそうになってフェリクスは急いで上を向いた。こんなところで泣きたくはなかった。

 村人たちや近くの街や村から集まってきた見物人が続々と広場に集まってくる。

 こんなに大勢の人がいるのに自分と同じように憂鬱な顔をしている人は一人も見当たらない。

 ――ここは、自分がいるべき場所ではない。

 いたたまれなくなって、フェリクスは広場を後にすると、広場から伸びる石畳の道を歩き始める。

 迷路のような路地はどんどん細くなり、道の石畳はいつしか消えた。

 緩やかな下り坂を下ると、そこは見渡す限り紫色の畑だった。

 フェリクスの背丈と同じくらいある紫色の花の株が、真っすぐに伸びた畝の上を見渡す限りずっと続いている。

 ――紫色の波……紫の海だ!

 一体どこまで続いているのだろう? 子供らしい好奇心でフェリクスは花畑を走り出した。

 紫の波は走っても走っても途切れることはない。

 半分意地になりながらフェリクスは紫の畝の果てを目指して走り続けたが、がむしゃらに走るうちに足をもつれさせて転んでしまった。

「うっ……!」

 そっと身体を起こしてみると、小さな膝小僧から血が流れている。

 ズキズキと痛む傷口を睨みつけて、フェリクスは思った。

 絶対泣かない、泣きたくなんかない……。

 またしてもこみあげてきた涙をのみこむため、フェリクスが上を向いたその時。

「あの……大丈夫?」

 見渡す限り紫色の茂みのどこからか、優しい澄んだ声が風に乗って聞こえてきた。