今日はもうこれで何度鏡の中を覗き込んだのかわからない。

 髪は一本の乱れもなく整えられ、濃いブルーのリボンでまとめた。

 濃紺の上衣は丁寧にブラシをかけたし、乗馬用のブーツは昨晩ピカピカに磨き上げた。

 斜めに流した前髪を少し指で整えてから鏡の中の自分に向かって微笑んでみる。

 はにかんだようなぎこちない自分の表情に我ながらがっかりする。

 ……駄目だ、不自然だ。……ぎこちなさすぎる。

 鏡の中の自分をまじまじと見てから、フェリクスは軽くため息を吐いた。

 しかも情けないことに、昨夜は緊張のためかあまりよく眠れなかった。

 今まで翌日に重要な会合が控えていようと、緊張で眠れないなどということはなかった。

 それなのに、なぜだか昨日は目がさえてしまって寝付けず、やっとウトウトとし始めた頃にはもう夜が明けかけていた。

「おはよう、フェリクス」

 身支度を終えて自室を出て、朝食を摂りに食堂へ行くとジュリアンがそこにいた。

「……早いな、おはよう」

 真向かいに腰かけるフェリクスの顔を見ながら、ジュリアンは楽しそうにニヤニヤと笑っている。

「なんだ、その表情は……」

 自分の前に運ばれてきたコーヒーを一口飲んでから、フェリクスは苦々しい顔でジュリアンを軽く睨んだ。

「いや、珍しいなと思って」

「珍しいって何がだ」

 ジュリアンが自分をからかっているのを分かっていながら、フェリクスはあえてそう言った。

「お前が自分から女性をデートに誘うなんて。大嵐でも来るんじゃないか?」

「デートじゃない、遠乗りだ」

 すかさず訂正するフェリクスのムッとした表情がジュリアンには堪らなく可笑しかった。

「……よかったなあ、花まつりに彼女を誘って」

 手柄顔で、ジュリアンが誇らしげにそう言った。

「泉で会った時にピンときたんだよなあ。お前が女性といて不機嫌そうじゃないなんて、これは今までの令嬢とは違うぞって、な」

「……」

 フェリクスは反論しなかった。

 そのまま黙り込んでしまったフェリクスに構わずジュリアンは続けた。

「まあ、楽しんでくるといいさ。ちょっと崩れかけているけど、夕方までに戻れば天気ももつだろう」

 ここのところ夏らしく乾燥した日が続いていたのに、今日という日に限って曇りがちな空を窓越しに見やってジュリアンは言った。



 ルクリュ家の屋敷で待ち合わせ、ジャネットとラウルが見送る中、二人は出発した。

 美鈴が最初はスピードを抑えて馬を走らせる傍らでフェリクスが伴走する。

 フェリクスの馬は額に白い模様が入った青光りするような黒毛の馬だ。

 子供の頃から毎夏の付き合いとうこともあってか、フェリクスによくなついているようだった。

「お上手ですよ! ミレイ殿」

 すぐ前を走る美鈴の手綱さばきを見て、お世辞ではなくフェリクスはそう言った。

 真面目に練習してきたのだろう。それに、馬が温厚なことも幸いしているのかもしれない。

 どこからどう見てもたおやかな令嬢である美鈴が、恐れることなくきびきびと馬を制している様はなかなかの見ものだった。

「……ありがとうございます。もうすこし、スピードを上げてみます」

 軽くフェリクスの方を振り向き笑って見せてから、美鈴は踵で軽く馬の腹を蹴り、速度を上げるよう合図する。

 人間には決して出せないような速度でもって風を切って草原を駆けてゆく。

 体中で感じる開放感!

 スピードを上げて追いついたフェリクスと目を交わしあうと自然に笑みが浮かんだ。

 長い距離を走る今日に限っては雲で日差しが遮られているのは幸いだった。

 馬も人もバテることなく、順調に草原を駆け抜け、林道を走り、目的地となる森へと近づいていく。

 ヴァンタール家が狩りを催すこともあるという大きな森は、葉を茂らせたブナ林やモミの森がつづき昼なお暗い。

 木がドーム状になっている林道を進むと鳥の声が高くこだまして聞こえてくる。

「もう少し行くと、草地があります。そこで昼食にしましょう」

 やがてフェリクスの言った通り森が切れると、広々とした草地と水量は少ないが、澄んだ清流が姿を現した。

 馬に水を飲ませてやってから、自分たちの食事に取り掛かる。

 ルクリュ家の屋敷で焼いたジャネット特製の食事パンのサンドイッチ。

 ……そしてもう一つはジャネットに教わりながら美鈴が焼いた菓子。

 貝殻のような焼き型に入れた黄金色の菓子はふんわりときれいに膨らんでおり、上々の出来だ。

 内心どきどきしながら、焼き菓子をほおばったフェリクスを見つめていると、少し驚いたように目を瞠った後ぱっと華やいだ笑顔をこちらに向けた。

「驚いた……すごく、おいしい」

 その屈託ない少年のような表情を目の当たりにした瞬間、美鈴はキュッと心臓をつままれたような不思議な感覚を味わった。

 それは、今までに感じたことのないような甘い、甘い痛みだった。