そう言ってフィリップは美鈴の両手をキュッと握った。

「いいえ、わたしは何も……。フィリップ様のご活躍をお祈りしておりますわ」

 にっこりと笑って美鈴はフィリップに答えた。

「君こそ、元気で……。リタリアから、手紙を書くよ」

 そう言い残すと、何度もこちらを振り返りながらフィリップは伯爵家の召使いと共に、元来た小路を帰ってゆく。

 フィリップの姿が完全に見えなくなったところで、美鈴は椅子に腰を下ろすと、ほうっと息を吐いた。

 ……やっぱり、向いていないのかしら。

 駆け引きなんて、自分にはとてもできそうにない……。

 夏空は蒼く澄み渡り、多少の暑さはあるものの、空気は乾燥して過ごしやすい……。

 それにしても疲れたわ。……いっそここで眠ってしまいたい。

 もちろんそんなことは叶わないと知りながら、眠気を感じてあくびをしながら、美鈴は椅子に上半身を横たえた。

 そっと目を閉じると、小鳥のさえずりと遠くからかすかに聞こえてくる賑やかなメインストリートのざわめきだけが聞こえてくる。

 そうして数分の間じっと微動だにせず横たわっていると、普段より研ぎ澄まされた耳がかすかな足音と衣擦れの音を捉えた。

 ……執事が呼びに来たのかしら?

 うっすらと目を開けた美鈴の瞳に映ったのは、黒髪の長身――趣味の好い夏物のグレイの上衣、白のズボン、男らしい端正な顔立ち……。

「……! リオネル」

 飛び起きるように身体を起こして居ずまいを正す。

「やぁ、奇遇だな」

 にっこりと笑いかけながら軽く帽子を脱いで、リオネルは美鈴に会釈した。

 なぜ、彼がここに……。

 そう思ってからすぐに美鈴はそれが愚問だと思い直した。

 ジャネットに子爵夫人、彼の情報源はいくらでも思い当たる。

 ましてや、今日の装い――ドレスの準備という点で彼はこのお見合いに多大な貢献をしてくれた人物だ。

 美鈴がいつどこでフィリップと会う手はずになっているか……知らない方がおかしいではないか。