* * *

 大広間を出ると、縁側をスタスタと歩いていくヒナタ嬢をアイシャさんが呼び止めて駆け寄って行った。
 僕はこそこそと後をつけると、アイシャさんの背後で立ち止まった。

「ヒナタさん。会議の場――というより、王の前で、あの態度は改めた方が良いわ。以前もあったでしょう。ほら、初対面の日に、王にあんな口をきいて。ああいうのは、良くないわ。お節介かも知れないけど、貴女はルクゥ国の代表としてきてるのよ。少し態度を改めないと、祖国の恥じになるわ。もう少し、礼節を持たないと」

 アイシャさんは気にかける表情で、ヒナタ嬢を叱っていた。アイシャさんは、真面目な女性なんだと、僕はすごく好感を持ったけど、ヒナタ嬢は違うらしい。迷惑そうな素振りでアイシャさんを睨み付けた。

「言ったろ。あたしにはそういうのは関係ないんだ。あたしは、戦場に出られさえすればそれで良い」
「随分と、わがままに育ったのね」

 アイシャさんは呆れたように言って、子供に言い聞かすように少し語調を緩めた。

「貴女だって、組織の一員でしょう。神官だって、序列はあったでしょう? 紅説王が奇特な方だったから良いようなものの、あんな態度、別の国の王にしたら、貴女、食客といえど、ただでは済まないのよ」
「序列?」

 ヒナタ嬢は侮蔑するように、鼻で笑った。

(なんだ、あの態度は!)
 傍から見ていてイラッとした。僕は断然アイシャさんの味方だね。

「人間は皆、ジャルダ神の下に等しくにあればそれで良い。それに、孤立は大歓迎だ。あたしは物心ついた時からずーっと孤立してる。ここに来たのだって、上からやっかまれただけだからな」
 ヒナタ嬢はつまらなそうに言って、ぼそっと呟いた。

「まあ、あたしは感謝したいくらいだったけど。正直拍子抜けだ。もっと血の臭いのするところだと思ってた」

 ヒナタ嬢は落胆した表情を見せて、踵を返した。
 僕はその背を見ながら、ふと、疑問が過ぎった。
(そもそもどうしてヒナタ嬢はジャルダ神を妄信するようになったんだろう?)

「ヒナタさん」

 僕は気がつけば声をかけていた。
 ヒナタ嬢は振り返って眉を顰めた。

「ヒナタさんって、どうしてそんなにジャルダ神が好きなんですか?」
「……好き?」
 ヒナタ嬢の目に鋭いものが走った。だけど、僕は質問せずにはいられなかった。

「だって、ゴートアール家って上流貴族じゃないですか」

 普通、ルクゥ国の上流貴族は神官職には就かない。
 神官職は修行僧となって、最低でも五年は家族の許を離れて修行しなければならない。言い方は悪いが、貴族、特に上流貴族に生まれれば、ぼうっとしていても良い職に就くことが出来る。だから、わざわざ厳しい修行を行う神官になどなろうとする変わり者はいない。
 生まれ、というてんではヒナタ嬢はちょっと違うけど。

「確か、ヒナタさんが修行僧を終えて、巫女の位についたとき話題になってましたよね。ゴートアールの息女なのにって」

 主に悪い噂だったけど。神戦巫女として名を上げるようになってからは皆、手のひらを返していたっけ。

「そこまでして、ジャルダ神に仕えるのってどうしてなんですか?」

ヒナタ嬢は不意に瞳を伏せた。
 一瞬の間をおいて、僕の頬を風がかすめた。
 何が起こったのか分からなかった。
 それを理解したのは、ヒナタ嬢が顔を上げた時だ。
 彼女は、無感情な瞳のまま腕を前に突き出した。何かが鋭く風を切る音が耳をかすめ、それは彼女の腕へと戻った。チャクラムだ。
 頬が、微かに熱い。何かが流れ出ているのがわかった。おそらく、血だ。
 僕は、ヒナタ嬢の目から視線を外せなかった。

「殺すぞ」

 ヒナタ嬢は、おそろしく静かな声で呟いた。
 その瞳には怒りが滲み出している。
思わず息が詰まった。

「ヒナタ!」

 アイシャさんが僕の隣で、悲鳴めいた声を上げた。
 彼女は本気だ――。僕がそう悟った瞬間、ヒナタ嬢は指を弾いた。
 それは、一瞬の感覚だった。

 僕の目の端に赤い液体が映り、体内から何かが引っ張られる感覚があったかと思うと、突然甲高い音が響いて、僕は我に帰った。
 目の前には燗海さんがいた。

 燗海さんはヒナタ嬢に刀を押し付け、ヒナタ嬢はそれをチャクラムの刃で押し返そうとしていた。

「ヒナタ。武器を下ろせ」

 燗海さんが優しく諭すように言うと、盛大な舌打ちが聞こえ、双方が武器を納めた。
 僕は、ほっと胸を撫で下ろす。
(……怖かった)

「殺されるところだったな。レテラ」

 振り返った燗海さんの表情は優しいままだったのに、口調は何故か僕を責めているように聞こえた。僕の胸に、もやっとした不満が沸き起こる。被害者は僕だそ。

 当の本人、ヒナタ嬢は、僕を見向きもせずに、踵を返してすたすたと歩いていってしまった。

 僕は、怒りを込めてヒナタ嬢の背を見据える。
 そこに、

「あまり、良い類ではないわね」

 ぼそっと呟いた声が聞こえた。
 振り返ると、アイシャさんと目が合った。彼女は、困ったように笑う。

「レテラ。今の言い方は、あまり良くなかったんじゃないかしら」
「え?」

「まるで、好奇心のままに不躾に人の心に土足で入っていったように思えたわ。あなたにはそんなつもりはまるで無いとは思うんだけれど」

 アイシャさんは苦笑して、前を見据えた。

「私、少しヒナタと話してくるわね」

 そう言って、小走りで駆けて行く。僕は呆然とアイシャさんを見送った。

「レテラ」
「はい」

 僕は燗海さんを振り返った。

「好奇心を持つということは、とても良いものだとワシは思う。けれどな、今お前さんの中に、ヒナタを敬う心はあったのかな」

 敬う?

「ワシは、ヒナタの過去に何があったかは知らん。だが、女だてらに厳しい修行をし、荒れ狂う戦場に立つというのは、相当な覚悟がいるものだと思う」

 燗海さんは、三日月のような目をそっと開いた。
 真剣な眼差しで、僕を見据える。

「レテラ。お前さんは、ヒナタに何があって神に仕えるようになったのか、推察することが出来るのではないのかな? じゃが、お前さんはそれを、ヒナタの口から聞きたくなった。それを、ヒナタは察したんじゃろう」
「……」

 僕の胸が重だるく沈む。
 多分それは、図星だからだ。

「人にはそれぞれ、過去というものがある。それは得てして、人に詮索されたくはないものだ」

 自分から話すのならまだしもな――燗海さんはそう呟いて、にこりと笑んだ。燗海さんが柔和な面立ちに戻って、ほっとした自分がいた。

 燗海さんはそのままもう一度微笑むと去って行った。
 僕はしばらくの間、その場に佇んでいた。
 
 ヒナタ嬢に逢ったのは、パレードの日が初めてだ。
 だけど、ヒナタ嬢のことを僕はずっと前から知っていた。
 常に貴族や民衆の間で、彼女は話題になっていたからだ。
 だから僕は、彼女の生い立ちを知っている。

 あくまで噂話だったけれど、かなり正確なものだと思う。
 彼女は、養子だ。
 ゴートアール家の本当の子供じゃない。

 ゴートアール男爵家は、歴史的に見ても名家だった。でも、残念ながら三代続けて容姿には恵まれなかった。
 
 現当主、ヒナタ嬢の養父であるアヒリア男爵は、自分の容姿がかなりコンプレックスだったらしい。その妻であるユーシャン夫人も、家柄は確かだが、美しいとはいえない容姿だった。子供は長女、長男と二人いて、僕は幼い頃に五つ年上のご息女に御会いした事があるけれど、美しい容姿だとは思わなかった。ただ、醜いわけでもない。至って普通。それが、僕の印象だった。
 
 それでも貴族の社交界では、噂の種だったんだ。
 家柄も立派、男爵自身も名のある城主。御子息は当時、若くして官職に就いていて、御息女もまた若くして名家に嫁いだ。
 
 非の打ち所のない家族を貶すには、その容姿しかなかったのだ。
 社交界という場は、煌びやかな衣装を身に纏い、豪華な食事を口にして、優雅に踊る。その一方で、相手の腹をさぐり、貶め、嘲笑する場でもある。
 
 実は僕は、それが嫌いではなかった。むしろ、その噂話を率先して聞きに行っていた。噂を口にするのは好きではなかったけど、人の話を聞く事は好きだった。それを書き留めるときに、僕は至福を感じていたんだ。
 
 そんな泥沼の嫉妬を、男爵は長年真に受けて過ごしたのだろう。
 
 あるとき、美しい少女がゴートアールの姓を名乗ったと僕の耳に入ってきた。
 養子になったその少女は、男爵が国中の娘を見てまわり、買い取った子供なのだという。国中を見て回ったというのは眉唾な気がしたが、実の親に売られたというのはどうやら本当らしかった。
 
 僕はその話を聞いた時に、好奇心に駆られて調べた事がある。当時僕は十二歳だったけれど、ラッキーなことに一度だけ男爵の屋敷の使用人が、僕の屋敷へ使いで来た事があった。その使用人から話を聞いたから、確かだと思う。

 僕はそのことを書き記したことで満足し、すっかり忘れていた。――いや。それは言い訳だ。僕は、確かにその事を頭の隅で覚えていた。

 そして、その売られた少女がヒナタ嬢だということも知っていた。
 僕は燗海さんの言うとおり、ヒナタ嬢が何故神職に就いたのか、察しがついていたんだ。

 子供が親に売られるということは、ルクゥ国では大して珍しいわけでもない。
 でも、貴族に養子に入るということは珍しすぎるくらいに珍しい。それに加え、あの容姿だ。ヒナタ嬢にも例の如く社交界の闇は降り注がれただろうし、まだ年端も行かない子供が、本当の両親でない者を両親だと思えるはずが無い。

 きっと、ゴートアール家では何かしらの問題は起きただろう。
 僕は、それを聞きだしたかったんだ。
 そしてそれを、ヒナタ嬢は察した。

 彼女は多分、僕が貴族だということは知っていただろう。貴族ならば、自分の生い立ちを知っているだろうことも、分かっていただろう。

 彼女は常に、人々の好奇と羨望の眼差しにさらされていたのだから。
 そしてそれは、僕も含まれていたことに今更ながら気がついた。

「そうか、そうだよな……」

 僕は小さく息をついた。
 ヒナタ嬢に初めて逢った日、ジャルダ神を語っていた瞳を思い出した。

 まだ幼い少女が、両親に売られた現実を受け入れる強さも無い少女が、強さの象徴である軍神に心を通わせたのは、自然の成り行きだったのかも知れない。

 僕は、生まれて初めて自分の〝悪い癖〟を、本当に悪い癖だと思った。
 後悔は重苦しく圧し掛かり、重いため息は僕の心を少しも軽くしてはくれなかった。