場にそぐわない、美味しそうな夕食の香りが鼻先を掠めていく。それなのに、今は少しも食欲が湧かない。

「はぐらかすな。……もしかして、あの男か?」

 煉はさくらに詰め寄り、リビングの壁際に追い込み、逃げ場を無くしていく。煉に包囲され逃げ場を失ったさくらは、俯く。

 今は煉と目を合わせるのが辛い。

 気付かなければ良かった。本当は何時の日からか、煉のことを好きになっていたという自身の感情を。八重樫くんの私に対する好意的な感情を。

 あの時みたいに、お酒の勢いで冗談めかして告白をして誤魔化せる状況なら良かった。

 それなら、例え失敗しても、断られてもなかったことに出来る。冗談だよって言えた。

 でも、今は言えない。

 そんなこと、出来ない。

「聞いてどうするの。煉には何の関係もないよね……」

「有るに決まっているだろう! 俺は……」

「今は何も聞きたくないの!!」

 ただの同居人だって、今さら再確認をさせられるくらいなら、そんな言葉、要らない。

 ──聞きたくない。


「……分かった」

 鬱血するほど強く掴まれていたさくらの腕から、煉の手の力が抜けて、するりとほどける。

 さくらは顔を上げることが出来ず俯いたまま、その場に立ち尽くしていると、煉の気配が徐々に遠ざかっていく。

 そして、煉は玄関から部屋を出て行った。

 ◇

 外は豪雨だった。梅雨時の湿った空気が雨と共に身体に纏つく。

 煉は傘を差すこともせずに、全身を雨に打たれたまま夜の街を宛もなく、さ迷い歩く。

 濡れた髪が視界を塞ぎ、前が見えずに傘を差した通行人と衝突する。

 何て言えば良かった。どう声を掛けてやれば良かった。

 さくらのあんな姿は、共に暮らし始めてから一度も見たことはなかった。

 こんな時に限って、何の言葉も思い浮かばない自分の無能さに苛立ちが募ってしまう。

 俺がいるから、さくらは苦悩してしまうのだろう。ならば、何も言わずに、さくらの前からそっと消えてしまえばいい。

 理解していたはずだが、その居心地の良さに、今までずっと実行出来ずにいた。良い機会じゃないか。これで、自分が不死身だとさくらに知られて、怖がられることも気味悪がられることも、全て無くなる。

 最初から、こうすべきだったんだ。

 これ以上、さくらを悲しませることも無い。

 これが、最初で最後の俺の我が儘だ。