不死身の俺を殺してくれ

 会社の社員に煉のことを知られたくなかったさくらが、胸裏でずっと懸念し恐れていたことが今まさに現実となってしまったからだ。
 
 さくらの返答次第では、八重樫の誤解が更に深まってしまう。熟考し慎重に答えなければならない。そう思う程に見えないプレッシャーが焦燥を加速させる。
 
「この人は……」

「俺の女だ」

「そう、俺の女──って、ちがっ!! 何言わせるのよ! 八重樫くん、違うの。誤解よ」

 さくらは煉の言葉に反射的に肯定しかけ、ハッと思い直して素早く否定する。今はこれ以上余計な誤解を増やしたくはない。煉を見上げ非難の眼差しを向ける。

「そんな……。俺……」

 二人のやり取りを聞いていた八重樫の表情は徐々に曇り始めていた。そして顔を歪ませて、今にも泣き出しそうに唇を噛み締めている。

「や、八重樫くん。これは本当に誤解なの。だから私の話を聞いて──」

「おれ…俺、そんなの絶対に認めませんから!!」

 歩道を歩く人々の喧噪が止み、一瞬の静寂が辺りを包む。何事かと遠巻きに此方を見据える僅かな人だかりが出来ていた。

 突然として絶叫した八重樫はさくらの言葉を遮った後、そのままの勢いで踵を返してその場から去って行く。ほんの一瞬の出来事だった。

 目下の状況が理解出来ずに、さくらは唖然としながら走り去る八重樫の後ろ姿を見送る。

 恐れていた事態は、煉の一言により良くない方向へ進行してしまった。

「……どう、しよう……。これじゃ完全に誤解された……よね」

「あの男、泣いていたな」

 事の元凶者である煉は、さくらの呟きを聞きながら至って平然な様子で、この状況を冷静に分析していた。

 泣いていた……? 八重樫くんが? どうして?

 煉の言葉に混乱する。確かに踵を返す一瞬、八重樫の瞳は潤んでいるように見えた気がした。だが、もしそれが本当ならば何故八重樫が泣く必要があるのか、さくらにはその理由がいまいち解らなかった。

 もしかすると、煉に睨まれて怖くなってしまったのだろうか。

 しかし、そんなことよりも、さくらが今一番に考えなければならないのは、八重樫の誤解を解く方法だ。

 このままでは、いずれ優にもこの話が伝わってしまうかもしれない。そうなってしまったが最後、さくらは優に何と説明をすれば良いのだろうか。

 相手は恋人でもない、元ホームレスニートのさくらのヒモになりかけている男だ。

 優が知ったら絶対に軽蔑しそうだよね……。

 それか、男を見る目がないと悲しまれるか……。

 ああ。こんなことになるなら、もっと早くに対策を考えておくべきだった。

 さくらの後悔は実に深刻だった。