「シャ……、ロイヒテン様からのご用事ですの?」
 そろそろと尋ねたサシャの言葉は否定される。
「いえ、キアラ様からのご用事で」
「……キアラ様?」
 シャイの、いや、『ロイヒテン様』の妹様。サシャのことは気に入ってくれたようだったが。
 どうして彼女の名前が出てくるのかも、なにかしらの用事があることもわからずに首をかしげたのだが、言われたことは爆弾であった。
「キアラ様が今度、ご友人と小さなお茶会を開かれるのです。そのとき、歌姫をしてくださらないか、と」
 サシャは仰天した。自分が話した脚色があまりに過ぎたらしい。キアラ姫の中ではすっかりサシャは『歌姫のお姫様』かなにかになってしまったのだろう。
「いっ、いえいえいえ!? わたくしのような者には過ぎたお役目で」
 思わずお行儀悪くもぶんぶんと手を振ってしまったのだが、彼はふところをごそごそと探ってなにかを取り出す。それは水色にうつくしい金色のレースの模様が入った封筒であった。
「キアラ様からのご依頼が書いておられるそうです。こちらをお読みになって、お返事を下さいませ」
「え、そ、その」
「急かすようですが、私も海を渡って帰らねばならぬのです。国に用もございます。明後日にはキアラ様へのお返事の封書を頂けないでしょうか」
 確かにあまりに急な話である。サシャは黙り込んでしまう。
「キアラ様たってのお願いなのです。どうぞ、ご一考くださいますよう」
 彼は慇懃だったが、断ることなど許さない、という響きを帯びていた。当たり前であろうが。ここでサシャからの良い返事を取ってこなければキアラ姫の機嫌を損ねてしまうだろうから。つまり、サシャはこの封書の中になにが書いてあろうとも、yesの返事をする以外ないのである。
 ごくりと喉を鳴らした。請けないという選択はない。とりあえずこの封書を読んでみて、なんと返事を書くか考えなければ。
「……わかりました」
 震える手で封筒を受け取った。裏には封蝋(シーリング)が丁寧に押して封がされている。紋はわからなかったが、ミルヒシュトラーセ王家のものに決まっていた。見てしまって更に手は震えた。
「お願いしますよ。……お時間を取らせました。お仕事なのでしょう」
「……はい」
 それで話はおしまいになってしまった。彼はバーの入り口までやってきて「長々と失礼いたしました」とマスターに軽くお辞儀をして去っていった。
 マスターはなにか聞きたそうな顔をしていたが、幸いサシャの出番の時間が迫ってきたので、サシャは誤魔化すように「急いで着替えてきますね!」とバックヤードへ走っていった。
 どこか夢心地のままバックヤードで薄っぺらなドレスに着替え、簡単なメイクをして店に出た。今日はピアノの伴奏に合わせて力強く歌う。しかしどこか集中しきれなかった。
 バックヤードの、自分のバッグに忍ばせた水色の封筒。
 シャイは確かに『ロイヒテンの身分があるから、ややこしいこともたくさんあるだろう』と言っていた。
 しかし、こんなに早く『ややこしいこと』が起ころうとは。彼と恋人関係になったことをちっとも後悔などはしていないが、少なくとも思っていたよりもずっと、ずっと大変な事態になってしまったのだと、やっとサシャは噛みしめた。