「サシャさん」
 その日の夕方、バーに出勤すると、見覚えのある男性が客として来ていた。すぐにわかった。ミルヒシュトラーセ王国への旅の間、ついていてくれたおつきの男性だ。サシャの職場なのだ。偽名である『サーシャ様』ではなく『サシャさん』で呼んでくれたことにほっとする。
「……こんばんは」
 久しぶりにお会いして、サシャの胸に浮かんだのは警戒心だった。
 なんの用事でいらしたのだろう。あまり良いものではない気がした。
「唐突にすみません。少々用がございまして」
「サシャちゃん。お知り合いかい」
 見知らぬ男性なのだ。マスターが心配してか、近付いてきて聞いてくれた。
「え、ええ。まぁ」
「マスターさんですか。すみませんが、サシャさんと少しお話がしたいのです」
 おつきの男性が良い身なりをしていることはマスターもわかっただろう。衣服は王室でのものではないようであったが、庶民とは明らかに一線を画していたので。
 なにかしらの、まさか王室付きの使用人などとは思わなかっただろうが、儲けている商家の人間かなにかくらいには思ったかもしれない。マスターは逆らうことなく「そうですか。……彼女の出番は遅くとも夜九時には必要なのですが、それまででもよろしいですか」と丁寧な口調で言った。
「かまいません。むしろお邪魔をしまして」
「いえ……」
 マスターは不思議そうな顔をしていたが、それでも逆らうに値しないと思ったらしく、「じゃ、サシャちゃん。ちゃんと戻ってきてくれよ」と釘だけ刺して、バーから解放してくれた。
 「内密ですので、こちらでよろしいですか」と連れていかれたのは馬車であった。ミルヒシュトラーセ王国で乗ったものよりは随分簡素であるが、この辺の貴族が乗るものくらいのクオリティはある。半分、お忍びのようなかたちでいらしたのだろう。
 馬車には御者がついていた。おつきの男性より下の身分のようで、「お待ちしておりました」と丁寧にドアを開けて、彼とサシャを乗せてくれた。
 内密と言われずとも、王家の関係者がこんなところまでいらっしゃること自体『内密』極まりなかったのでサシャは身を固くしてしまう。ちょこんと馬車の中の椅子に腰かけたサシャに、彼は「どうぞお楽に」と言ってくださった。