2113年 8月某日
 彼女に殴られた頰が痛い。国民総幸福量(GNH)について話がしたかっただけなのだが、伝わらなかったようだ。
 だが殴ったほうもきっと痛いだろうと思い、この痛みをわたしはあまんじて受ける。
 それよりも、この胸の痛みは何故であろうか。
 彼女は、お茶に何かを入れたようだ。媚薬という名の毒を……

 
 荷台でゆられること二時間。辺りがすっかり暗くなった頃、トラックはようやく停車した。ツバキが運転席をのぞくと、ドライバーは道端の自動販売機へ向かっている。
 ふたりはそっと荷台を飛び降り、辺りを見回した。
「どこだ? ここは……」
 活気のよさはコミューンの市民街と似ているが、匂いが違う。提灯やランタンが彩る街の背後に、工場のシルエットが見える。
 油の匂い、煙の匂い。裏道に入れば、生ゴミのようなすえた空気が漂っている。
 そして匂いより何より、降灰量が違った。ここに降る灰はコミューンの比ではなく、陽が落ちた後もロードスイーパーが走っている。
 少なくとも、レイチョウ少佐の城が近くにあるとは思えない。
「マズイぜ、アニス博士。おれたち——って、またいねェ!」
 今しがた後ろにいたはずのアニスの姿はなく、道路をはさんだ牌坊門からツバキを手招きしている。
「リクドウさんこっち! ほらこのひと、お家じゃなくてこんなところで寝てるんです。おかしいでしょ、どうして?」
 見ると、泥酔した男が歓楽街の飲み屋の軒下で高いびきをかいている。
「飲み過ぎて帰れなくなったんだよ。よくあることだ」
「お家があるのに、外で飲んだり寝たりするんですか?」
「いやまあ……男にはそういう日もあるんだよ。あまり突っ込んでやるな」
 アニスが理解不能という目でじっと見つめてくるが、さすがのツバキも簡単に答えは出せない。
「もういい、放っとけ。自業自得だ」
「でもまだ夜は冷えるし、このままだとこのひと、灰に埋もれてしまうわ。とりあえず起こしましょ」
 栗色のくせっ毛は、すでに灰だらけである。男をアニスがゆすって起こすと、男はニヤニヤとした寝顔で腕を回してきた。
「うーん……○○ちゃァん……」
 店の女の子と勘違いしているらしく、アニスにしがみついてくる。
「ど、どうしましょう。リクドウさん」
 青くなって固まるアニスから男を無理やり引きはがすと、ツバキは男の頬をぺちぺちと叩いた。
「おい起きろ、オッサン! 何寝ぼけてんだ!」
 男はぼんやり覚醒すると、無精髭の生えた口をぬぐい起き上がる。
「ひでえ、おれまだ二十八……あれ、女の子だと思ったのに、野郎かあ……」
「てめ、おれが起こさなかったら、あんた朝には灰といっしょに埋立地行きだぜ」
「ははっそーだな、サンキュ。んじゃま、帰るとするかあ」
 派手にくしゃみをし、鼻歌交じりにご機嫌に去って行く後ろ姿を見送りながら、ツバキは肩をすくめた。
「あーいう大人にはなるなっていう見本だ」
「あんなひと、あまり見ないですね」
「そりゃ、ここはコミューンじゃねェから——」
 言いかけてツバキは、改まってアニスを見た。
「あのな、あんた勝手にいなくなるからよ、先に決めとこうぜ」
「はい」
 遠回しに注意されているのがわからず、きょとんとしてうなずくアニスにツバキはため息をつく。
「迷子になったら、その街の駅を目指すこと。いいな」
 ちょっと目を離すとこれだよ園児かよ、とぶつぶつ文句を言うツバキに、今度は街角からふいに声をかけて来た男がいた。
「兄さぁん、灰も深まって来ましたよ。今夜の宿はお決まりで?」
 愛想よく表面はにこやかに近づいて来たが、細身の長袍(チャンパオ)に強い香を漂わせ、あまりまともな稼業ではない印象だ。
 加えて足は砂地仕様のごついブーツという、一見サービス業のような外見とはちぐはぐなスタイル。
 ツバキは、男をそっけなくあしらって先を行った。
「あァ、決まってる」
「どうです? 安くしときますよ」
「ウサギの世話にはならねェよ」
 男の耳たぶには、小さなウサギのピアスが光って見えた。
「兄さん。この街に来たら、ウチを通したほうが利口ですって」
「どーだか」
 邪魔だというように片手で躱す。
「何ですか? ウサギって」
 アニスが後ろをふり返ると、男はにっこりと親指を下に向けていた。
「『ハイイロウサギ不正規連隊(イレギュラーズ)』。ギャング気取りの、ロクでもないゴロつきの集まりさ。プロ用の軍靴履いてただろ、あーいうやつはヤバいんだ。連中の取り締まりは警察軍でおれらの管轄じゃないが、ま、どのみちあんなのには関わらねェほうがいい」
 とはいえ、どこかで宿を取らないといけないのも事実だ。降りしきる灰の下、野宿するわけにも、朝まで街をぶらつくわけにもいかない。
 ツバキは目がチカチカするような漢字だらけの発光する看板を見上げ、ため息をついた。
「こんなところに女子高生と泊まったら、犯罪だよなァ……」
 しょうがなく、騒がしいネオン街を抜け、ひっそりとした旧市街へ入る。今はもう使われていない、壊れかけの廃ビルが建ち並ぶエリアだ。
 建設途中で工事が中断したもの、もともと欠陥建築で傾いてしまったもの。機能を失った街は、まるでゴーストタウンだ。
 水も電気も通っていないため、ホームレスすら住んでいないが、工場区から少し離れているので空気は悪くなかった。
「防砂設備もねェし、ちっと寝心地は悪ィが、横になれりゃいいだろ」
 ビルはかつてオフィスとして使われていたらしく、壊れた椅子や机が無造作に積み上げられ、散乱している。最上階にはところどころ剥げかけた革ばりのソファが並んでおり、ツバキはソファにうっすら積もった灰を叩くと、腰かけてスプリングを確かめた。
「ひっでェ音……あ、アニス博士はそっちのソファな」
「ここで、いっしょに寝るんですか?」
 アニスが驚いて聞き返すので、ツバキはキリリと清廉に敬礼する。
「誓って何もしないから安心しろ」
「? 何をしてくれるんでしょう?」
 疑問と期待に満ちた目がツバキを見つめてくる。アニスは、寄宿舎以外のベッドで眠ったことがない。ましてや、誰かと眠ったことも。
(……もう帰りてェ)
 ツバキはどっと疲れに襲われた。アニスはいつもと違う状況を楽しんでいるようで、いそいそとソファを整え休む準備をしている。
 だが、一日はりつめていた緊張が解けたせいか、ふたりはそのまますぐに寝入ってしまった。
 
 一時間ほど経った頃、ツバキははっと目を覚ました。そっとアニスをゆり起こすと、人さし指をくちびるに当て出口のほうへ促す。
 階下で足音がする。ツバキは非常階段のほうへ回った。ドアを開けると、とたんに灰がふき込んで来てふたりとも思わず目をつぶる。
「あれぇ、兄さんじゃないですかぁ」
 突然抜けるような能天気な声が飛んで来て、ツバキはぎょっと立ちすくんだ。さっきの男が尾けて来たのか、数人を引き連れて非常階段の下からニヤニヤと見上げている。
「兄さぁん、ここウチの自社ビルなんで……宿泊するなら、宿代払ってもらわないと!」
 彼はいきなり、階段を数段すっ飛ばして駆け上って来た。長袍の袖口から、キラリと刃物がすべり出る。
 ツバキは、転がっていたパイプ椅子の足をつかみ、男が繰り出してきたナイフを十字に受け止めた。
 相手は怯むどころか、細い躰からは思いもつかない重厚なパワーでおして来る。
「だからぁ、ウチ通したほうがいいって言ったよねぇ!」
「失せろ!」
 ツバキが男の腹を思いきり蹴ると、軽い躰はいとも簡単に飛ばされ、壁に激突した。
「痛ってぇ……」
 言葉とは裏腹にたいしたダメージもないのか、男は楽しげにまた突進して来る。目にも止まらぬ速さでナイフをくり出すが、ツバキの手刀で叩き落とされる。
 だが、身を捻った拍子に体勢を崩したツバキのすきを男は敏捷に見極め、ツバキの髪をつかむと顔に肘鉄を食らわせた。
「……ぐふっ!」
「……!」
 飛び散る赤い飛沫に、アニスは声にならない悲鳴をあげる。
(リクドウさん……!)
 アニスは思わず机の山へ走っていた。力いっぱい下の椅子を引き抜くと、
「うわあぁぁ!」
 オフィス家具が雪崩のように彼らに襲いかかった。
 ツバキは瞬発で起き上がると、アニスの手を引き屋上へ駆け上がった。家具の下敷きになった男たちは、物騒な言葉を毒づきながらよろよろと這い出している。
 ツバキは走行の延長のように、隣接するビルに跳び移った。
「アニス博士、こっちだ!」
「……嘘っ、無理です!」
 ツバキが腕を広げて待つ対岸のビルは、ここからおよそ二メートル。
 それはともかく、地上数十メートルの高さでジャンプする機会など、アニスに当然これまであるわけがなかった。
 下を見ると奈落のような暗闇に目がくらみ、足がカタカタとすくむ。
「むむむ無理無理、絶対落ちます!」
「やつらが来る、早くしろ!」
 アニスをかかえて跳べる距離ではないのだ。だがそうこうしているうちに、本当に男たちが屋上へ上がって来た。
「——くそっ、来やがった。あー、高校生女子立ち幅跳び平均記録は一・五〇メートルはある(多分)! 大丈夫だ、助走つければ跳べる! おれが絶対受け止めるから来い!」
 その瞬間、実質的な数値の提示がトリガーとなり、アニスは跳んだ——
「きゃっ……!」
 着地で足を踏み外す。だが強い腕ががっしと引きもどし、アニスはツバキの胸に無事収まった。ほっとしたのも束の間、あまりの近距離にぎょっとして、アニスはまた立ちくらみを起こしそうになる。
 おさまらない動悸を抑えつつ、アニスはツバキの後を追ってビルの階段を駆け下りた。
「はあはあ……もう心臓が持たない」
「もうちょっとだ、がんばれ!」
 一階まで下りると見せかけ、渡り廊下を伝って隣りの棟へ。走って旧市街の駅まで出ると、そこはもう無人ではなかった。
 駅には屋台やタクシーが並び、そこそこにぎわっている。
「もうのんびり休んでるヒマはねェ。これでレイチョウ少佐の城まで行こう」
 ツバキはタクシーを一台捕まえ、アニスを後部座席におし込むと自分も乗り込んだ。
「とりあえずコミューンまで行ってくれ」
「お客さん、これ、街内限定車なんですよ」
「あ? 何だよそれ、ゴーカートじゃあるまいし」
「まあ、ゴーカートみたいなもんですよ。行き先も決まってますしね」
 言うやいなや、ドライバーがマスクをつける。深くかぶった制帽からのぞく耳たぶに小さなウサギのピアスが見え、ツバキはあっと声をあげた。
 不透明なガラス板が、運転席と後部座席を仕切るように可動する。
「しまっ——」
 しかし車内に満ち始めたガスのほうが回りが速く、意識を奪われたアニスたちは夜より深い闇に堕ちて行った。

「う……頭が痛ェ……」
 ふたりが目を覚ましたとき、そこはさっきと同じビルの一室のようだった。窓から、工場の灯りが規則的に点滅するのが見える。
 見回すと、折りたたみ椅子やダンボールの山。どうやら、物置に使われている部屋のようだ。
「……おれら、何か薬で眠らされた?」
 こめかみをおさえるツバキに、アニスはくんくんと鼻を鳴らす。
「吸入麻酔薬イソフルラン。エーテルの匂いがします。副作用は頭痛、嘔吐。化学式は」
「いい、余計頭痛くなるから。つーか詳しいな、あんた。やっぱ『博士』なんだな」
 ツバキは眉間をつまみながら苦笑する。
「あーいう薬、作ったりすんの?」
「はい。昨日、痴漢行為をなさったリクドウさんに使用したものとか」
「だから痴漢じゃねェって……てか、アレ、あんたが作ったの!?」
「はい。こういうのもありますけど」
 アニスはうなずいて、ポケットから水鉄砲式の護身用具を取り出した。
「……マジか。昨日めいっぱい浴びたやつ、劇薬じゃないだろうな」
「有害なものじゃありません。原材料は、トウガラシとオリーブオイルですから」
 ツバキはいささか理不尽な気持ちでつぶやいた。
「……それフツー、キッチンで使うのが正しいんじゃないかね。まあいいや、これ使えるぞ。あいつらはどこだ?」
「隣りから話し声がします」
 アニスは落ちていた紙コップを壁に当て、じっと耳をすました。
「何か食うって言ってますけど」
「はは。ウサギはニンジン食っとけって」
「わたし、だそうです」
「誰が言ってる!?」
「みんな。白くておいしそうって……食うなんて冗談ですよね?」
 不安な表情のアニスに、ツバキは青くなった。
「い、いやそういう意味じゃなくて——とにかく逃げるぞ」
 ツバキは急いで窓から外を見た。大窓が片壁全面を覆っている。だが本来外にあるべきベランダは崩れ、ほぼ断崖だ。
 しかもさっきとは向きが違う部屋らしく、隣接する建物は見当たらない。
 どのみち、今度は跳べる状況ではなかった。動くたび、じゃらじゃらという金属音がふたりにつき纏う。
 彼らの手首は、仲よく手錠で繋がれていた。
 突然がちゃりとドアが開き、さっきの長袍の男を筆頭に、がらの悪い面々が入って来た。めいめい手に鉈や鉄パイプを、耳障りな音を立て引きずっている。
「ほんとだ、かわいーねぇ」
「くんくん、おいしそう」
 強面な男たちの、ウサギとは思えない肉食獣な発言に、アニスは思わず後退りした。 鉈男が、長袍の男ににやついた目線を送る。
「どうする? イチイ」
「野郎はいらねぇや。手錠はずぜ」
「めんどくせ、それじゃ手首ごと——」
 ツバキ目がけて鉈が大きくふり上がる。アニスの悲鳴が響く前に、男たちから叫び声があがった。
「ぐわあぁ! 痛ぇ!」「目があぁぁ!」
 ツバキがトウガラシエキスの水鉄砲を手に、アニスの手を引き出口へ向かう。
 だが——
「!」
 後頭部を鉄パイプが襲い、ツバキは床に転倒した。
「ガキが! ナメたマネしやがって、何使いやがった!」
 男は腫れた目をこすりながら、ツバキの胸部を刺突のようにパイプで撃つ。
「ぐはっ……」
 骨が軋む鈍い音を聞き、アニスはツバキの前に立ちはだかって叫んだ。
「——や、やめなさい、それを作ったのはわたしです!」
「あァ? 何だと?」
 男の視線がアニスへと矛先を変える。ツバキは身を起こし声を荒げた。
「やめろ! こいつは——」
 そのとき、破砕音が部屋を突き抜け、窓ガラスが一斉に割れた。
 一瞬、その場にいた者は何が起きたかわからず、黒のロングブーツが窓を蹴破って入って来るのを唖然と見ていた。
 特殊部隊よろしく、頭にバンダナを巻いた大柄な男が、ハーネスのロープを慣れた手つきではずす。
 棒つきキャンディなどくわえてはいるが、獣のような鋭い眼つきに、思わず数人が数歩退った。
 場を奪われた一同におかまいなしに、男はだるそうにコキコキと肩を鳴らす。
「あーらら、ここ倒壊寸前とはいえウチのビルなんだけど……兄さん方、使うならショバ代払ってもらわないと」
「ンだとコラァ! ここはハイイロウサギの……!」
 鉈男が我に返り勢い込む。
「だから、ウチのビルだって言ってんだろ」
 戯けた声色が急に冷気を帯び、全員が思わず息を呑んだ。
 男のむき出しの肩に彫られたウサギのタトゥーを見咎め、イチイの顔がみるみる青ざめる。
「あんたまさか……」
 動揺を隠せないイチイの様子に、アニスは男を返す返す見た。
 どこかで見たことのある顔だ。それも、ついさっき。
「あっ、リクドウさん、このひと——」
 アニスがツバキにささやいたほんの一瞬の出来事だった。イチイは突然、アニスを開いた窓へと大きく突き飛ばした。
「アニス博士!」
 ツバキがとっさにアニスの手をつかむ。だが支えられるはずもなく、ふたりはまとめて三階から落下した。
 バンダナの男があわてて窓際へ駆けよる。
「……おいおい、マジかよ」
 呆れたように笑みを浮かべた先には、植え込みの繁みに絡まって沈んでいるふたりがいた。
「運のいいやつ」

『ハイイロウサギ』を騙った徒党は、とっくに姿を消していた。
「逃げ足だけは早いな。脱兎とはよく言ったものだ」
「ほんと、あーいうの困りますよね」
 アニスが目を覚まして最初に耳に飛び込んできたのは、バンダナの男と少年の会話だった。 
 ここは、どこか工場の事務所のようだ。
 寝かされているのは三人がけの使い込まれた革ばりのソファで、毛玉だらけだが自分にはあたたかいブランケットもかけてある。
 とりあえず、さっきのようなたちの悪い連中とは違うようだった。
 助かった、とアニスはひとまず安心した。起き上がると、包帯が巻かれた額の傷が少し疼く。
「痛……」
「あっ、気がついた?」
 少年がうれしそうに、水の入ったコップを持ってやって来た。
 陽に灼けた肌に光る黒曜石のような大きな瞳が、こちらを無邪気にのぞいている。動くたび、さらさらの短い髪がゆれるかわいらしい子だ。
 最後に口にしたものと言えば、サービスエリアで食べたソフトクリームのみだったので、コップ一杯の水でもありがたかった。
 飲み干すと、意識がだんだんともどって来る。
「あの、リクドウさんは……」
「連れは医務室」
 男がキャンディの棒で奥の別館を指す。
「ぶ、無事なんですか?」
「ま、頑丈なやつだよ。アオイ、案内してやれ」
 アニスは急いで立ち上がると、アオイと呼ばれた少年について行った。
 ツバキは古い簡易ベッドの上で、わきに立つ巨漢の男と口論の最中だった。天井から片足を吊るされ、至る箇所包帯でぐるぐる巻きと見るからに重傷ではあったが、息巻く元気はあるようでアニスはほっとした。
「だから、動けるって言ってるだろ! はずせよ、この拘束具!」
「だめだ、お前は全治一ヶ月と診断された。勝手に動くならそのままでいてもらう」
「おれは仕事があるんだよ!」
 部屋の入り口に立つアニスに気づき、なおも言い立てる。
「あっ! アニス博士も言ってくれよ、おれたちは急ぐんだってことをよ」
「やれやれ、麻酔が切れたら騒がしいもんだ」
 応酬を遮るように、バンダナの男が入って来る。
「それにしても、わざわざ危険な旧市街で寝泊まりするとは、世間知らずなやつだな」
 いかがわしい歓楽街よりはマシかと思った先が犯罪組織の温床だったと知り、ツバキはぐっと言葉をつまらせた。男は説教するように責めて来る。
「しかも、女ひとり護れないとは情けない」
「お、おれは身を呈してこいつの下敷きになったんだぞ」
「おれならまず頭部を護る」
「あ、あのー、わたしどこも何ともありませんから」 
 見かねてアニスが口を挿むと、アオイが呆れた口調で入り口から顔を出した。
「アカザさま、ふたりを交えてみんなに話があるんでしょ。ぼくもヒマじゃないんです、早くして下さいよ」
 男——アカザはきまり悪そうにアオイを睨むと、アニスとツバキに向き直って腕を組んだ。いつの間にか医務室の外には、十数人の男たちが集まっていた。
「さて、成りゆき上、お前たちをこうして拾ったわけだが——」
「何だと? ひとを犬か猫みてェに」
 ぎりりと睨むツバキに、アニスが目配せをする。
「リクドウさん、このひと、ゆうべ路上で寝ちゃってたひとですよ」
「あ!?」
 確かに、よく見ると自分たちが灰の中起こしたあの酔っ払いだ。灰だらけだった栗色の髪は、今日は無造作に後ろでまとめられている。
「おい、オッサン」
 とたんにぴきぴきとアカザの額が筋走るが、ツバキはしたり顔で身を乗り出した。
「おれたちゃ、あんたの命の恩人なんだぜ。わかってんだろうな。さっさとコミューンへ帰してもらおうか」
「アカザさま、飲みに行くときは気をつけて下さいって、いつも言ってるでしょ」
 小姑のようなアオイの小言を躱し、アカザは大仰な仕草でツバキを見下ろす。
「おお、その節は世話になった。だからこそこうやって、仲間全員でお前を助けた」
「だから! さっさとここから出せって言ってるだろ、オッサン!」
「今度言ったら殺す。カシ、その馬鹿を黙らせろ」
 アカザが凄みのある一瞥をツバキに送ると、大男がベッドの足をドンと蹴った。振動にかはっと息を吐くツバキの額には、うっすら脂汗が浮いている。
「平気なふりをしているが、相当痛むはずだ。片脚は骨折、肋骨も二本イカレているからな。ああ、やっとまともに話ができるな。アニス——といったか?」
 アカザが腰に手を当て、ベッドの横に怖々と控えていたアニスを見下ろす。
「不本意かもしれんが、『灰都(ハイト)』へようこそ、お嬢ちゃん。さっきの話にもどるが、我々はお前たちの面倒を見ることになった」
 黙ってうなずくアニスに満足したように、アカザは微笑んで続けた。
「さて、ここ灰都ではみんなが働き者だ。だがお前さんの連れを看病する間、ウチは業務が滞る。お前に、その穴埋めができるかな?」
「お前らの仕事を手伝えって言うのか? 冗談じゃないぞ、何か白い粉を砂糖と偽って運ばせたりするんだろうが!」
 とたんに飛んできた声に、アカザが呆れながらカシに目配せをする。
「ほんっと馬鹿だな、お前は。ビルから落ちて頭のネジもイカレたか?」
「ぼくら、そんなことしないよう」
 アオイも不満そうに口を尖らせる。
 唐突な提案に、アニスは戸惑った。
 ずっと寄宿舎と学院を往復して生きてきた自分は、当然一度も働いたことなどない。経験のある仕事といえば、せいぜい当番で回って来る、掃除や皿洗いくらいだ。
 本音を言えば、こんなところにいるより早くレイチョウ少佐の城へ向かいたかった。
 しかしツバキのあの様子——カシにまたベッドの足を小突かれ、痛さに躰を折っている——では、どのみちしばらくここから動くことはできない。
「わ、わかりました。わたしにお手伝いできることなら」
「おい、アニス博——」
「アニス、こっちだよ!」
 アオイに手を引かれ病室を出て行くアニスを、ツバキは呆然と見送った。

 早速次の日から、アニスは持ち場に配属された。
「ぼくたちの仕事は、降った灰を除去することだよ。ロードスイーパーが入れないような道や、工場の中を掃除するんだ」
 周りを見ると、年齢も性別もわからないほど完全防備の作業員たちが灰をせっせと掃き、専用のゴミ袋につめている。
 アオイが、箒とマスクをアニスにわたす。アニスは分厚く固いマスクを翳し、しげしげと観察した。
「このマスク、学院の売店で売ってるものとは違うみたい」
「そりゃそうさ。コミューンで売ってる、あんな風邪ひき対策みたいな薄っぺらなものじゃ、ここでは役に立たないよ。正規の降灰用を買わなきゃ。でも、上等なものだと、逆に狩られちゃうから気をつけてね。息が苦しくなったら、すぐに中のフィルターを交換するんだ。あっ、コンタクトとかしてない? 灰が目に入ったら半端なく痛いよ。ゴーグルも必ずつけて。それから髪は……」
 よどみなく続く助言に、アニスは面食らって訊いた。
「ここはどこなの? コミューンではないのね?」
「お嬢ちゃん、何にも知らないんだな。ここは排気と石粉の工業地帯、スクラップだ」
 アカザが、額にバンダナを巻きながら工場へ入って来る。
「スクラップ、ここが……」
 地理の授業で、一度習っただけの階層区名。労働者街、貧民街とカテゴライズされている。
 地下にはり巡らされた下水道で暮らす、まつろわぬ民と呼ばれる無法者たちもおり、警察軍も手を焼いているという。
 実際、足を踏み入れるのは初めてだ。アニスは、改めて曇った空を見上げた。
 いったい、いつから灰は降り続けているのか。
 湾奥の火山活動で、世界最大級のカルデラができたのはおよそ三万年前。その窪地の縁にある緋(あけ)ノ島は、それから約四千年後に噴火を始めたと言われている。
 火山ガスと火砕流で灰桜国の人類と文明を一度は滅ぼしたという大噴火、『緋ノ島大変』から数百年。そして現在に至るまで、降灰禍は変わらず国民をじわじわと脅かしてきた。
 くり返す農産業への打撃に国は防砂事業を立ち上げたが、それでひとびとの生活から不安が消えたわけではない。緋ノ島の風下は、壊滅的な被害を被うこともあった。
 当然、そんな土地にひとは住みたがらない。
 逆に風上は灰がふいて来ないため、人気があった。資産階級がものを言うのは世の理の通りである。王族貴族たちは、こぞって風上の土地を買い漁った。   
 そうしてできた階層が、グレーター、コミューン、スクラップである。
「ここの降灰量に驚いたか? 神の加護のないこの国でも、特に灰都は最悪だからな」
 アカザが、灰にけぶる緋ノ島を仰ぐ。
「灰が降る街だから、誰ともなく『灰都』と呼ぶようになった。ま、『丘』の対義語みたいなもんだ」
 だがそう語るアカザの口調は開放的で、少しも悲嘆に暮れたところはない。むしろ、ここの生活を楽しんでいるように見える。
 アカザはサンドバイクが無造作に並んだ工場の入り口をくぐると、ブリキのバケツをガンガンと鳴らし、むさくるしい男だらけの作業員を注目させた。
「いいかみんな、新しいお仲間だ、いろいろ指導してやれ。コミューンでは教わらないことをな!」
 そしてアニスに食べかけの棒つきキャンディを向け、哀れみを込めたまなざしで口の端を上げる。
「お前は走るメロスのようなものだ。怠けてスピードが落ちるようなら、あの超絶馬鹿なセリヌンティウスの回復は保証できない。いったんハイイロウサギの巣に紛れ込んだら、ただで帰すわけにはいかないからな」
「もう、アカザさま、意地悪なんだから」
 アオイがベェとアカザに舌を出したが、アニスの額にはたらりと一滴、汗が伝った。 助かったとは、とても思えなかった。