「金香」
 不意に声をかけられると同時、右手にあたたかな感触が触れる。
 それがなんであるか、なんてわからないはずがないのだが思わずぱっと見てしまった。
 そして知る。縁側に置いていた自分の右手に先生の左手が重ねられていることを。
 認識した途端そこから火がついたようだった。手がかぁっと熱くなる。
 それはすぐに全身に回った。今までも隣にいらっしゃる先生にどきどきしていたというのに、そんなことは些細だったと思わされてしまう。
 心拍が速くなりすぎて息苦しい。きっと顔も赤くなっただろう。
 金香のその反応は良いほうに取られたのかもしれない。先生の左手が動き、はっきりと金香の右手を包み込む。
 あたたかく大きな手に包まれ、しかもそれは想い人のもので。
 幸せだと思えるはずだった。
 嬉しいと思えるはずだった。
 なのに、何故か良い感情は浮かばなかった。
 むしろ、金香の胸に膨れ上がったのは。
 ……恐怖、だった。
「聞いてくれるかい」
 不安が膨れ上がり、心臓が喉までせり上がってくる。
 なにを言われるのか。
 隣に座られて、このように触れられて、わからないはずがない。
 実体験としては知らないものの、知識や女性としての本能が告げている。
 それはとても喜ばしいことにほかならない。ことによってはこれまで生きてきた中で最上級の喜びだろう。
 なのになんだろうこれは。
 心臓が凍り付きそうだ。息も苦しい。
 ちがう、ここは喜びに胸が湧くところなのに。どうして。
 金香が軽い恐慌状態に陥っているうちに、右手がすくい上げられた。
 先生の右手に丁寧に、それはもう硝子細工でも扱うかのように慎重に持ち上げられ、そして手の甲にやわらかなものが触れる。
 手の甲へのくちづけ。敬愛を示す表現。
 師から弟子におこなうものではない。次々に与えられるものに金香はついていくことができなかった。くちづけを落とした金香の右手をやはりそっと両手で包み込み。
「きみのことを師としてではなく、一人の男として想っている。私と交際してはくれないか」
 言われた言葉が最後だった。
 まるで心臓を握りつぶされたかのようになにかが胸の奥で破裂して、金香の体を震わせる。
 歓喜にではない。真逆の感情であった。
 それがどこからくるのかはわからなかった。
 別に取って食われるとでも思ったわけではない。むしろそのような心配を覚えるずっと、ずっと前の段階であった。
 誰かに特別な愛を向けられること。
 嬉しいはずのそのことが、この体と心が壊れてしまいそうなほど恐ろしかった。
「……ぁ……」
 しかし金香の理性はきちんとわかっていた。
 ここは喜びを覚えるところだと。
 女性として最上級のしあわせだと。
 それでも心の恐怖が勝ってしまう。
 くちびるから出たのは言葉にならない震えた、声かも怪しいものであった。
「……金香?」
 体の震えも触れた手を通して伝わったのだろう、視線の先で先生の整った眉根が少しひそめられた。様子がおかしいと思われたのだろう。
 そうだ、こんなこと、おかしい。
 喜んで然るべきところなのにこんな反応。こんな反応をされたら失望されても仕方がない。
 頭に浮かんでしまったそれが、不安感を助長した。
 ふ、と詰まった息が零れて、喉の奥までなにかがせりあがる。
 それは堪えることもできずに目から零れ落ちた。
 だめだ、こんなこと。
 思うのに、とめることなどできなくて。
 顔を覆って隠したいのに先生に右手を包まれてしまっている以上それは叶わず、また振り払うなどという無礼も働けなかった。
 ぱっと顔をそらして空いた左手でやっと口元を覆う。自分が涙しているということを実感してしまい、それが更なる雫となって零れ落ちる。
 明らかに『喜び』からではなく泣き出した金香に、先生は戸惑ったろう。まとう空気が揺らいだのが伝わってくる。