彼女に連れていかれたのは浪漫の香りがする喫茶店であった。
 茶屋ではない。西洋の建築に近く作られているのだろう。暮らし慣れた建物とは随分雰囲気が違った。
 毎回洋装で訪ねてくる彼女なので、なんとなくこのような店が似合うだろうと想像していたが、そのとおりになったというわけだ。
「素敵なお店ですね」
「お気に入りなのよ」
 町中を歩くときに前を通りかかったことはあるものの、入るのは初めてであった金香は、ついきょろきょろと中を見回してしまった。
 一通り見てから、はっとする。子供ではあるまいし失礼だっただろう。
「す、すみません、このようなお店に入るのは初めてで」
「いいえ。見とれてしまうくらい素敵でしょう? たとえば私はそこの絵画が好きなのよ」
 慌てて謝った金香を助けてくれるように、ふんわりと微笑んで彼女は壁にある花の絵を示した。
 なんという花なのか名前はわからなかった。西洋にだけ咲く花なのかもしれないが、とても美しいことに変わりはなかった。
「紅茶でよろしいかしら?」
「あ、はい! よくわからないので……お任せします」
 一任してしまったが彼女は単に頷き、給仕を呼んでなにごとか注文してくれた。
 きっと彼女はこの店では馴染みなのだろう。給仕も「いつものものですね」と微笑んで去っていった。さて、準備はすべて整った。あとはなんとでも音葉さんとお話ができる。
 しかし実際にこのような状況に置かれればやはり緊張してしまって、どう切り出したものか悩んでしまった金香に、音葉さんのほうが先に口火を切ってくれた。
「今日はお誘いくださってありがとう。良い機会だったわ」
「いえ! あの……ずっと、お話してみたいと思っておりましたので」
 躊躇ったものの、正直に言うことにする。流石に下を向いてしまったが、それでも言った。彼女が微笑んだ気配がする。
「本当に? 嬉しいわ」
 そのようなやりとりのあと、彼女が言ってくれた。
「巴さんはもともと寺子屋の先生だったと伺っております。とても良い先生だと」
 どきりとして金香は慌てて手を振った。
「いえ! 先生などとだいそれたものではなく、ただのお手伝いで」
 源清先生ったら一体どのようなことをご説明されたのかしら。
 私には勿体ない表現のような気がするわ。
 心中で言い、正式な教師ではないと言ったのだが彼女は褒めてくれた。
「それでもお子さんにお勉強を教えていたのでしょう? 誰にでもできることではないわ」
「あ、ありがとうございます……」
 褒められればくすぐったい。子供たちに勉強を教えているというのは事実であったので。
 そのあとは音葉さんのことについて教えてくれた。
 彼女の家は名のある商家だそうだ。西洋からの輸入品を扱っているらしい。
 金香はそれで納得した。
 洋装なのもそれが良く似合っているのも、家が西洋と関わり合いがあるからだと思えばむしろ自然である。
 音葉さんは現在、お父上のお店の店番やお母上のお手伝いなどをして過ごしているそうだ。それは商家に生まれた女子にはよくあることであったが、洋風の家はまた少し違った事情があるのかもしれない。
 お母上は近所の方々を集めて談話会のようなことをされているそうだ。そのお手伝いをしているのなら、内弟子に出る余裕はないうえに執筆にかかりきりになることもできないのだろう。彼女の話から金香はそのように推察した。
 音葉さんの家の話の次は、金香に質問がきた。
「巴さんのご家族は?」
「父がおります。荷運びをしていて、あまり家には居ないのですけど」
 それだけで彼女は『金香に既に母が亡い』と察したのだろう。「そうなのですね」とだけ言った。
 ついでに『家族と縁が薄いので内弟子に入った』ということも察されたのかもしれない。「どうして内弟子に?」とは訊かれなかった。
 賢い女性だ、と金香に思わせるにはじゅうぶんな対応である。
 家族の話はそれだけでおしまいになり、次は書きものの話になった。
 ここはなにも気兼ねすることがない。むしろ物を書くことについて女性と話す機会はこれまでほぼなかったために、金香はつい興奮して話してしまった。
 それは音葉さんも同様だったようで、意外なまでに無邪気にころころと笑い、おまけに今日持ってきた『課題の半紙』まで見せてくれた。
 そして話は好きな雑誌や小説、作家のことへ移っていく。
 あら、これはいわゆる『文学談義』だわ。
 話しながら金香はおかしくなった。
 男性がするようなことを。まるで自分まで時代の最先端まで連れていかれたような気がする。
 運ばれてきたかぐわしい香りの紅茶のためもあり。文学談義もひと段落した頃には、窓の外もだいぶ橙に傾いてきていた。
 ここまで愉しく会話してしまったが金香は、はっとした。肝心なことが聞けていない。
 つまり『先生との仲』だ。
 急に腰が引けてしまう。
 訊けやしない。
 「先生と恋仲なのですか」などと。
 しかしそろそろ解散して帰らなければだろう。
 どうしよう、勇気を振り絞るか、それとも。
 そこで彼女が不意に言った。
「巴さんは、好い人はいらっしゃるの?」
 訊かれて金香の心臓が跳ねあがった。
 好い人。
 そんな人はいないけれど。
 それは本当だけれど。
 まさか「先生のことをお慕いしております」などとは言えない。
 恥ずかしいのも勿論あるが音葉さんが先生と恋仲であるのならば、失礼とお邪魔にしかならないだろう。
「お、おりません」
 本当のことを言うのがやっとだった。おまけに彼女の顔も見られない。
「そうなの……不躾にすみません」
「いえ!」
 本当ならここで訊き返すべきだった。
 「音葉さんはいらっしゃるのですか?」と。
 絶好のタイミングであったのに。
 しかしその質問は金香の口から出てこなかった。喉の奥につっかえてしまったように。
 臆病が先に立ってしまったのだ。
 「源清先生とお付き合いしているの」などと言われてしまったら、と。
 いっそはっきり知ってしまえば諦められるなどと思ったことは吹っ飛んでいた。
 知りたくない、恐ろしい、そしてそんなことは厭。
 そのような思考でいっぱいになってしまい、結局そのことについては訊けずにそのまま音葉さんと喫茶店を出て、別れてしまう。
 帰り際、音葉さんは言ってくれた。
「またお逢いしましょうね。私も時たま源清先生のお屋敷をお訪ねしますし、巴さんから訪ねてきてくださってもかまわないわ」
 それを素直に「ありがとうございます」と受けて、そして、帰っていく彼女の後姿を少しだけ見て金香は自分も帰路についた。
 道すがら、自分の臆病さに嫌気がさしてしまった。
 肝心なことも訊けずに、これではお会いした意味がまるで無……くはないけれど。
 考えかけたところで自分の思考を否定する。
 お互いのことを知れたのも良かったし、文学談義も愉しかったし、意外と良い姉妹弟子になれそうなこともわかった。
 気分転換になったのは確かだったので、とりあえず初めてきちんとお話しできただけでも上出来だと思わないと。
 金香はそう思っておくことにして、ここでやっと屋敷での夕餉の支度の時間が迫っていることに気付いて慌てて小走りで帰ったのだった。