引っ越しの日は晴天だった。暑さも目の前まできていて、一重の着物がそろそろ暑くなる頃。浴衣を出す日も近そうであった。
 荷は勿論父親が運んでくれた。それが商売だ。手慣れた様子で借りている馬にさっさと積んで、そして先生の家まで。
 先生は「弟子にも手伝わせよう」と言ってくださったが、そのお手伝いは荷下ろしと先生の居宅に入れてもらうくらいであった。
 父親と別れたのは、荷を全部入れ終わって先生の家を出るときだ。父親は先生に対して、非常に慇懃であった。
 座敷に招いて茶を出してくださったご挨拶の場。先生は「大切にお預かりいたします」と手をついてくださったし父親も同様だった。「つまらぬ娘ですが、お願いいたします」と。
 「好きにしろ」などと金香に素っ気なく言ってきたのが嘘のように。
 先生は「よろしければ今夜、酒でもいかがですか」とお誘いくださったのだが、父親はそれを丁寧に辞退した。
「申し訳ございません。明日、早くから遠出の仕事なのです」
 それは本当のことだと知っていた。明日から一週間ほど、海の街まで行くのだと聞いていた。
 こうしてお仕事の予定を聞くのも今日まで。
 胸の中に寂しさが溢れた。放任主義とはいえここまで自分を育ててくれて食べさせてくれたのだ。大切にしてくれなかったとは到底言えない。
 新しい住まい、先生の居宅の前で父親と別れるときには涙まで浮かんだ。
「せっかくご指導を受けるのだ。精一杯やるのだぞ」
 「はい」と答えるのが精一杯だった金香の頭を、ぽん、と叩き、父親は背を向けて帰っていった。
 見守りながら金香の頬に涙が伝う。
 寂しかった。
 普段からなかば一人暮らしをしているようなものだと思っていたが、それは本当は違ったのだ。
 家に居ないことも多くとも、確かに帰ってきてくれる身内がいる。そう感じられていたことは確かな安心だった。
 そのひとと離れて知らないひとたちの間で暮らす。急に不安感が込み上げた。
 父親の背中も、なんだか寂しげに見えた。がっしりとした背中なのに妙に縮こまったように見えてしまう。
 お父様、私がいなくてご飯は大丈夫かしら。
 などと思ったが生活上は特にできないことなどないのだ。ちょっと不便になるくらい。
 それでも金香がいなくなればそれなりにがらんとしてしまうだろう。もしも新しい奥さんを迎えるとしても、父親にとっても大きな変化に違いない。
 そしてなにより、金香を手放すことを寂しいと想ってくれているようなのが、なんだか嬉しかった。ちゃんと大切にされていたのだ、と思えたので。
「巴さん」
 うしろから声がかかった。源清先生だ。
 振り返ろうとしてはっとした。親と別れて涙しようなど子供ではないのだから。
 気恥ずかしくなったのだが、先生の言葉は優しかった。
「お父様と離れて不安だと思うけれど、私で良かったら言っておくれ」
「ありがとうございます」
 袖で涙を拭ってやっと振り返って金香は笑った。
 無理をしたわけではない。新しい生活。それが楽しみであるのも事実であったのだから。