金香の様子を源清先生は「気が進まない」と思ってしまったのかもしれない。さらりと長めの横の髪を揺らして首をかしげ、フォローしてくださる。
「無理になど言わないよ。年頃の娘さんだ。親御さんとて手放すのは心配であろうから」
「……はい」
流石に今、このような複雑かつ、少々情けない事情は口にできない。俯いたまま言った金香に源清先生は妙に猫なで声ともいえる優しい言葉をかけてくださる。
「この家と部屋にはいくらか空きがあるんだ。だからその点については心配いらないよ」
確かに立派な家の割にはひとの気配は多くなかった。
先程の高井、お茶を持ってきてくれた下女、そして庭で手入れをしている下男らしき者。
見かけた人物はその程度であった。
「この家屋は私の師に譲り受けたのだ。師が住んでいた時代は私含め、たくさんの門下生を抱えていてね、そのためにまだひとの住む余地があるんだよ」
なるほど、と金香は思った。そう言われば納得できる。
「私の師というのは、春陰(しゅんいん)という号を持っている者だ。雑誌などで見たことがあるかな」
金香は仰天した。
春陰……フルネームは『春陰 愁(しゅんいん うれい)』といえば今や、雑誌に何本も連載を抱えている、源清先生以上の大先生ではないか。小説家の師弟関係には詳しくないために初めて聞いた。
「は、はい! ございます! というか、ご連載を毎号拝読しておりまして……」
金香にとって自由になるお金は少ないので、寺子屋の教員室で取っている定期購読の雑誌でではあったが。自分でお金を出しているわけではないのが申し訳なく思うのだが、「読んでいる」と言えたことは誇らしく思う。
「おや、それは嬉しい。師に伝えておこう」
「えっ、い、いいです!」
「ふふ、読者が増えたと言うだけだよ」
慌てて言った金香に源清先生は心底おかしそうに言った。
あ、このお顔は初めて見る、と金香は思ってしまう。
ちょっとからかいを含んだ表情だ。妙に悪戯っぽく、また、……かわいらしい、などと思ってしまった。
今日ご自宅にお邪魔してからはなんだか素の表情をいくつも拝見している気がする。それはとても新鮮で、またとても嬉しかった。
「さて、では本日はひと段落かな。次の添削はいつにしようか。私から赴いてもかまわないのだけど」
言われて夢のような時間の終わりを知る。
愉しい時間は早いものだ。あっという間にときが過ぎてしまった。窓の外の様子ももう夕方に近い。
もしかして徒歩で帰る私を気づかってくださったのかしら。
金香はちょっとくすぐったくなった。確かにこれ以上遅くなれば夏の手前とはいえ、家に帰り着く頃には日が暮れてしまうだろう。
「いえ! お邪魔でなければわたくしからお訪ねさせていただきます!」
金香は言った。
源清先生がいらっしゃるのなら寺子屋だろう。
先程ご自分でおっしゃっていた。訪ねるのも時間のご都合的にあまり余裕が無いと。
それを聞いてしまってはそうしていただくのは気が引ける。金香のほうは比較的自由に動けるのだし。
「そうかい? そうしていただけると有難いけれど、手間をかけてすまないね」
そのあと次の日程も決まり、金香は源清先生に導かれて玄関へ向かった。源清先生自らお見送りをしてくださり、最後に念を押された。
「先程のこと、考えておいておくれ。出来れば次回返事を聞かせてもらえると嬉しいよ」
そのくらいに自分のことを内弟子にと望んでくれているのか。
金香の胸が熱くなる。尊敬する先生にこのようなこと、身に余る光栄だ。
「それでは失礼いたします」と帰路についたのだが、なんだか足取りがふわふわしている気がした。
内弟子、ですって。
まさかこんな展開になるとは思わなかった。
「自分を」と指名してくださったことが嬉しかった。
自分の才を認めてくださったことが嬉しかった。
なにより尊敬する方のおそばで暮らせるなどこのうえない幸運ではないか。
でも同じお宅で生活するなんて毎日緊張で死んでしまいそう。
思って頬が熱くなるのを感じた。
男女の仲に極端に鈍い金香は『異性の内弟子になる』ということがどういう存在になるものなのかを、まったく知らないままに。
「無理になど言わないよ。年頃の娘さんだ。親御さんとて手放すのは心配であろうから」
「……はい」
流石に今、このような複雑かつ、少々情けない事情は口にできない。俯いたまま言った金香に源清先生は妙に猫なで声ともいえる優しい言葉をかけてくださる。
「この家と部屋にはいくらか空きがあるんだ。だからその点については心配いらないよ」
確かに立派な家の割にはひとの気配は多くなかった。
先程の高井、お茶を持ってきてくれた下女、そして庭で手入れをしている下男らしき者。
見かけた人物はその程度であった。
「この家屋は私の師に譲り受けたのだ。師が住んでいた時代は私含め、たくさんの門下生を抱えていてね、そのためにまだひとの住む余地があるんだよ」
なるほど、と金香は思った。そう言われば納得できる。
「私の師というのは、春陰(しゅんいん)という号を持っている者だ。雑誌などで見たことがあるかな」
金香は仰天した。
春陰……フルネームは『春陰 愁(しゅんいん うれい)』といえば今や、雑誌に何本も連載を抱えている、源清先生以上の大先生ではないか。小説家の師弟関係には詳しくないために初めて聞いた。
「は、はい! ございます! というか、ご連載を毎号拝読しておりまして……」
金香にとって自由になるお金は少ないので、寺子屋の教員室で取っている定期購読の雑誌でではあったが。自分でお金を出しているわけではないのが申し訳なく思うのだが、「読んでいる」と言えたことは誇らしく思う。
「おや、それは嬉しい。師に伝えておこう」
「えっ、い、いいです!」
「ふふ、読者が増えたと言うだけだよ」
慌てて言った金香に源清先生は心底おかしそうに言った。
あ、このお顔は初めて見る、と金香は思ってしまう。
ちょっとからかいを含んだ表情だ。妙に悪戯っぽく、また、……かわいらしい、などと思ってしまった。
今日ご自宅にお邪魔してからはなんだか素の表情をいくつも拝見している気がする。それはとても新鮮で、またとても嬉しかった。
「さて、では本日はひと段落かな。次の添削はいつにしようか。私から赴いてもかまわないのだけど」
言われて夢のような時間の終わりを知る。
愉しい時間は早いものだ。あっという間にときが過ぎてしまった。窓の外の様子ももう夕方に近い。
もしかして徒歩で帰る私を気づかってくださったのかしら。
金香はちょっとくすぐったくなった。確かにこれ以上遅くなれば夏の手前とはいえ、家に帰り着く頃には日が暮れてしまうだろう。
「いえ! お邪魔でなければわたくしからお訪ねさせていただきます!」
金香は言った。
源清先生がいらっしゃるのなら寺子屋だろう。
先程ご自分でおっしゃっていた。訪ねるのも時間のご都合的にあまり余裕が無いと。
それを聞いてしまってはそうしていただくのは気が引ける。金香のほうは比較的自由に動けるのだし。
「そうかい? そうしていただけると有難いけれど、手間をかけてすまないね」
そのあと次の日程も決まり、金香は源清先生に導かれて玄関へ向かった。源清先生自らお見送りをしてくださり、最後に念を押された。
「先程のこと、考えておいておくれ。出来れば次回返事を聞かせてもらえると嬉しいよ」
そのくらいに自分のことを内弟子にと望んでくれているのか。
金香の胸が熱くなる。尊敬する先生にこのようなこと、身に余る光栄だ。
「それでは失礼いたします」と帰路についたのだが、なんだか足取りがふわふわしている気がした。
内弟子、ですって。
まさかこんな展開になるとは思わなかった。
「自分を」と指名してくださったことが嬉しかった。
自分の才を認めてくださったことが嬉しかった。
なにより尊敬する方のおそばで暮らせるなどこのうえない幸運ではないか。
でも同じお宅で生活するなんて毎日緊張で死んでしまいそう。
思って頬が熱くなるのを感じた。
男女の仲に極端に鈍い金香は『異性の内弟子になる』ということがどういう存在になるものなのかを、まったく知らないままに。