「お先に失礼致します」
 どこか夢心地のまま金香は荷をまとめて寺子屋を出た。
 今日あったことはなんだったのだろう。まるで夢のようだった。
 交わした言葉だけではなく幾度かかち合った源清先生の視線を思い出すと妙に胸がざわつく。
 やわらかな羽ペンでくすぐられているような、蝋燭に火をつけられたような。気恥ずかしくもどかしく、しかしあたたかい想い。
 既に実際にお会いせずとも源清先生のお姿は金香の頭の中にはっきりと思い描けるようになっていた。
 さらりとした茶色の髪も。優し気な焦げ茶の瞳も。常に浮かべている微笑も。細身ながら男性らしく長身な体躯も。低いけれどやわらかな色を帯びたお声も。そして近くに寄ればふわっと感じられる香の良い香りも。くらりと酔わされてしまいそうな香り。
 これはすでにはっきりと恋であったのだが、残念ながら金香がそれに思い至ることはなかった。
 なにしろ初めて抱く感情であったのだ。文を書くことが好きである以上、本はたくさん読んできてこういう感情を『恋』と呼ぶのだという知識はあるが、金香にとって未だ実感としては一度も感じたことのない気持ちであった。よって感情と感情を表す言葉が直結しなかったといえる。
 これほど源清先生に憧れてしまったのね。
 あまつさえそのように思ってしまう始末で。
 そのような感情であったのなら、これほどぼんやりしてしまうはずがなかったのに。
 この『憧れ』……と、実のところは誤解している気持ちなのだが……、の感情をどうしたら良いのかわからない。
 誤解はしていたが、『惹かれている』という事実は自覚していたのでぼんやりと思い悩む一人の帰り道。顔が赤く染まりそうで仕方がなかった。
 でもこの悩みは不快なものではなかった。むしろあたたかくて心地よい。
 年頃の女の子であるのだ。このような感情を厭うはずがない。
 それはともかく、どのくらいぼんやりしていたかというと、夕食の買い出しを忘れて帰宅してしまうくらい。この日は父親が家に居たのできちんと作らなければならなかったのに。
 そのせいで家に着いてから自分の失態にはっと気づいて、バタバタと買い物に出ることになった。八百屋と肉屋を回って、食材をやっと買う。なんとか格好はつくだろう。
 袋を抱えて帰路につきながら、もう一度自分がおかしくなっている、と金香は噛みしめてしまった。
自分がこれほどひとつの想いにとらわれて、ぼうっとしてしまうなど、金香には信じられないことであった。