「臥ていないじゃないか」
 部屋の灯りを落としてきたであろう麓乎が入ってくる。からかうような声で言った。
 酷い、と思う。
 麓乎は金香よりも十年も長く生きているのであるし、そして金香よりも色々と経験してきているはずだ。女性と床を共にすることが初めてであろうはずもない。
 そこで麓乎がほかの女性と床に入ることを想像してしまって、胸が痛んだ。
 が、そのような余計なことを考えている場合ではなかった。
「ほら、寒いから」
 また追いやられてしまった。逃げる間など与えずに。
 白い寝具に潜り込むと、まるで麓乎に抱きしめられているようだった。
 敷いたばかりであろう布団はまだ冷えているのに、金香の体は火がついたように熱い。
 麓乎は布団の上にきたものの、枕元の灯りを小さく絞っている。恐れ多くも横になったままで金香はそれを見た。
 どくどくと心臓が煩い。
 なんだろう、この状況は。
 本当なら実家の自分の布団でぐっすり眠っているはずだったのに。
 どうして自分は麓乎の布団になど居るのだろう。
 実家で寝てきたほうが良かっただろうか、とまで思ったのだがすぐにその余計な思考は吹き飛んだ。
 麓乎が横に潜り込んできたので。
 まるで心臓が頭に移ったようだった。どくどくと脈打つのが感じられて苦しいほどだ。このように感じては動けるはずもないではないか。
 横になったまま固まっている金香に手を伸ばしてきて、普段するように、抱きしめられた。
 抱きしめられることには慣れたと思っていた。
 が、普段とは状況が違いすぎる。
 ひとつ床の中でなど。
 到底力を抜くことなどできなかった。
 目の前には、抱き込まれた麓乎の胸がある。
 白い夜着。
 香の香り。
 それとは別に、麓乎自身の香りだろう、滅多に感じられない匂いも届いた。
 これほど近付いたことは無い。
 物理的にも、そして多分、心情的にも。
 布団と麓乎の腕の中で固まっている金香の背が、撫でられる。
 初めて抱きしめられたときや、そして今日帰ってきたとき。
 金香が泣くといつもしてくれるように。
 そして麓乎に背を撫でられると、緊張はすぐに解けずとも、少しずつ、少しずつ緩んでいくのである。
 詰まっていた息を少しずつ吐くように意識しながら金香は思ってしまう。
 今度はまるで母のようだ、と。
 母親が子供を抱き込んで眠るようだ、と。
 ふっと知らないはずの感覚が体をよぎった。
 母に抱かれて眠った日々も、確かにあったのだろう。
 記憶にないほど金香が幼かった頃であろうが、体はしっかり覚えていたのであろうか。
 その感覚は、金香の緊張を解く手伝いをしてくれた。
 このひとは信頼できるひと。
 大切なひと。
 傍に居てくれるひとは、確かに居るのだ。
 麓乎の手つきと抱いてくれる腕は、金香にはっきりと教えてくれた。
 そしてそのとおりのことを、ぼそりと言われる。
「きみは独りではないし、私はきみを独りになどしないよ」
 このひとはわかっていたのだろうか、と思う。
 金香が『自分は独りぼっちなのだろうか』と思って不安になってしまったこと。
 わかっていた、のかもしれない。
 それがどうしてなのかは、麓乎自身の経験であるとか、過去からの連想であるとか、色々と理由はあるのだろう。
 しかし今大切なのは、それよりも。
「……はい」
 あたたかいものが胸に溢れて、金香の緊張は解けていた。そっと麓乎の胸に顔を押し付ける。
 大好きな香りだ、と思った。
 それをこのような状況で感じられるのは、きっと極上のしあわせだ。
 一緒に臥る、など言われて、眠れるはずなどないと思った。
 想い人の男性と床を共にして、たとえなにもされずとも寝付ける余裕などないと。
 が、現実は違っていた。
 安心感が胸を満たして、目を閉じると意識はふわふわと曖昧になっていった。
 それはとても心地良い感覚で。
 不安感が蕩けてなくなってしまったように金香の意識もゆっくりと眠りへと落ちていった。