胸にあった、一番単純な気持ち。
 一番、厭だと思ったこと。
 声は震えたが笑みを浮かべることには成功した。
 しかし麓乎は金香のその表情を見て、顔を歪めた。
 むしろ麓乎のほうが痛切な表情になる。どこかを痛めているような、そんな顔。
「無理をしなくていいのだよ」
 数秒黙っていたが、やがて言ってくれたこと。無理をしていることなど筒抜けなのはわかっていた。
 が、実際にそう言われてしまえば、麓乎の言葉通り、無理やり言った言葉や気持ちは壊れてしまいそうになる。
「きみにとっては唯一の身内だろう。お相手ができれば取られた気持ちになって当然だ」
 言われて今度こそ完全に気持ちは壊れてしまう。
 こみ上げた涙は今度は飲み込めない。ぽろぽろと零れ落ちた。
 当たり前のように麓乎は膝を詰めてくる。金香を胸に抱き取ってくれた。
 どきりとしたものの、もう慣れたのだ。それどころかこうしてくださったのが嬉しくて、そして安心して。金香は抱き寄せてくれた麓乎にしがみついていた。
 普段通りの、香の香りが余計に涙を刺激して麓乎の胸に顔を押し付けて、金香は嗚咽を零す。
 それは子供が父親にするようなものだったかもしれない。
 父親に抱きしめられた記憶など、少なくとも物心ついてからは一度もないのだけど。
 けれど麓乎はそれに値するほどには立派な大人の男性であった。金香の恋人である、男性だ。
 泣く金香の背を、麓乎はただ撫でてくれた。なにも言わずに。それでもそうして貰えるだけでじゅうぶんだった。
 どのくらい泣いていただろう。
 ようやく気持ちもおさまってきて、金香は息をついた。
 子供のようにしがみついて泣きじゃくって。醜態を見せてしまった。初めて抱きしめられたときほどではないが、恥ずかしくなる。
 金香が少しでも落ち着いたことを悟ったのか、麓乎が口を開く。
 しかし言われたことは、金香の心臓を喉元まで跳ね上がらせた。
「金香。今夜、私の部屋へおいで」
 言われた言葉。喉元まできた心臓を握りつぶされたかと思った。
 その誘い。
 この状況。
 今までとは違うのではないだろうか。
 ただの添削や話をしていた、今までとは。
 夜。恋仲の男性の部屋へ行く。意味するところがわからないはずがない。
 いくら男の人との交際が初めてであろうとも。
 しかし実際の麓乎の意図は違っていたようだ。
「なんだい、今までは気軽に訪ねてきていたのに」
 麓乎のほうも、金香の様子を見て多少なり動揺したのだろうがそれも落ち着いたのだろう。常のようなからかうような響きを帯びていた。金香が連想したことなどわかっている、という様子で。
「なにをしようというわけではないよ。そこは安心しておいで」
 言われた言葉ははっきりとはしていなかった、が、金香の想像してしまったこと、つまり、……子供を作るような、その類の行為をしようという意味ではないようだ。
 そして麓乎は嘘をついたり前言を撤回したりする人ではない。
 本当に、想像した、というか、もっといってしまえば金香が恐れたことはないと思っていいのだろう。
 ただし、ほっとするより先に金香はわからなくなった。
 なにもないというなら、どうして意味ありげな言い方をして呼びつけるのだろう。
 まさか普通に文の添削などをしてくれるわけではないに決まっている。
 それでは男女が、しかも交際している者同士が夜に同じ部屋で過ごすなど、ほかになにがあるというのか。
 不安に思っていたことよりも、その疑問が割って入ってきた。
「……はい」
 しかし金香はそう返事をするしかなかった。
 どちらにせよ、師でもあるこのひとの言葉に頷かないわけにはいかないのだ。