「おや? 泊まってくるはずではなかったのかい」
 間の悪いことに、玄関を入って自室に帰る前に麓乎と出くわしてしまった。金香を見て、麓乎は不審そうに頭をかしげた。
 「一晩泊まってまいります」と言い残して昼間、出ていったのだ。麓乎の疑問も当然のもの。
 その顔を見て、優しい焦げ茶の瞳で見られて、急に先程の悲しい気持ちがよみがえってきた。
 堪える間もなく、ぽろぽろと涙が零れてくる。
 ここしばらく泣くことなどなかったというのに。
 金香の反応に、麓乎は勿論驚いたようだ。
 「おうちでなにかあったのかい」と訊かれて金香は頷くしかなかった。そのとおりであったので。
 別段冷たく当たられたわけでもないのに、さっさと帰ってきて、あまつさえ泣くなど自分が弱すぎる、と思ったけれど止まらない。
「そうか。荷物もあるし、一旦部屋へ戻るといい」
 言って、少し躊躇ったようだが続けてくれた。
「一人になりたいかい。そうでなければ、私に話しておくれ」
 表現は良くないが渡りに船どころではなかった。
 今、一番逢いたかったひとだ。
 家族ではない。
 けれど今の金香にとっては一番近しいといっていいひと。
 二人で金香の部屋に入ったが、麓乎はすぐに出ていってしまった。「飲み物を持ってくるね」と言って。
 飲み物など要らなかったので傍に居てほしかったのだが、それは口に出せなかった。
 望みすら言えないほど混乱しているのだ、と自室に独りになってから金香は思い知った。
 とりあえず荷物を置いて箪笥からはんかちを出す。濡れた頬をそっと拭った。
 先程麓乎にかけてもらった、優しい言葉に少し、ほんの少しだけではあるが、落ちつけた気がする。
 十分ほどが経ち、麓乎が戻ってきたときには涙は止まっていた。
 悲しい気持ちはちっともなくなっていなかったけれど。
 麓乎は金香の湯呑みと自分の湯呑みを盆に乗せていた。
「生姜湯を入れて貰ったよ。温かいものを飲めば少し落ち着くはずだ」
 麓乎に生姜湯など入れられるとは、少なくとも金香は思わなかったうえに、実際に「入れて貰った」と言ったので、厨の飯盛さんか誰かが作ってくれたのだろう。
 しかし持ってきてくださったのは麓乎だ。
 作ってくれと頼んだのも麓乎だ。
 恋人関係ではあるが、男性であり師でもある麓乎に用意させて飲み物を持たせるなど、本来は失礼極まりないのであろうが。
 とても嬉しかった。
 自分のことを心配して、自ら厨になど行ってくださったことが。普段は入りもしないであろうに。
「ありがとうございます」