「失礼します」と、ノックをして引き戸を開ける。
「ああ、……巴さん」
 足を踏み入れる前に金香はどきりとしてしまった。
 やわらかなその声で名前を呼ばれてしまったので。
 子供たちの勉強を見ていたときと少し違う色を帯びているように感じた。それはとても優し気な。
 いえいえ、そんなのは勘ぐりだから。元々優しいお声でいらしたじゃない。
 金香は自分に言い聞かせ、少し躊躇ったものの先生の文机に近付いた。
「もうすぐ終わるよ。皆、よく書けている」
 先生の前には半紙がたくさん散らばっていた。子供たちの書いた作文。
 赤で書き込みがたくさん。これほどしっかり見てくださっている。
 勉強が終わり、子供たちが帰り支度をして解散してからそれほど時間は経っていないのに、なんと筆がお早いことか。
「お、お邪魔してもよろしいですか」
「はい、勿論」
 隣に腰を下ろしても良いか。
 またしても躊躇ったものの、立ったままのほうが失礼だろう。金香は思い切って問う。
 源清先生は当たり前のように答えてくれた。
「普段は巴さんが見ているのかな」
 一枚の半紙にさらさらと赤鉛筆を走らせながら源清先生に問われる。
 訊きながらも書けるとは。
 複数のことを同時におこなえることに感心しながら金香は頷く。
「はい。未熟ではありますが」
「そのようなことはないよ。少なくとも、本日拝見した限りでは」
「勿体ないお言葉です」
 ぽつぽつとやりとりをしながら源清先生は赤鉛筆を動かしていった。
 金香はその様子をじっと見つめる。
 自分もそこから勉強させていただくつもりだった。
 源清先生の文字は非常に整っていた。
 字はしっかり力を持っていて、男性的である。しかし雑なところはなく、とても読みやすい。
 そして漢字をあまり使っていなかった。
 子供にも読みやすいようにかしら。
 思った金香だったが、半紙が取り換えられていくうちに、そうではないことに気が付いた。
 先生は、使い分けているのだ。半紙に書かれている文の、熟成具合で。
 幼い、まだ漢字もあまり知らぬ子の半紙には平仮名で。
 逆にだいぶ漢字を覚えてきた子の半紙には少し難しい漢字も入れて。
 一読しただけでそれに合わせておられる。感嘆した。
 自分とて合わせることはできるだろう。
 しかしそれは一読しただけではできない、と思う。毎日子供たちと接しているからできることだ。
 この子は幾つくらいだからこのくらいの漢字を知っているとか。
 この子は文を書くのが苦手だから難しい漢字はあまり使わないようにするとか。
 日々の経験からきているものなのである。
 源清先生はそれがほぼ無いというのに金香以上に的確な使い分けであった。金香は見事な添削の様子に見入ってしまう。
「さて。これですべてだ。明日は勉強があるのかな」
「あ、は、はい!」
 最後の半紙を積んだ紙の上に置いて。
 源清先生は金香を振り向いた。
 見入っていた金香は、急に視線を向けられて驚いてしまう。
「……はい。文の時間もあります。そのときに子供たちに配って、もう一度繰り返してみようと思います」
「それが良いね。書き込みを読むだけではあまり進歩にならないから。自分の手で、もう一度書いてみるのが良いと思うよ」
 自分の指導方針を述べた金香に、源清先生はにこりと笑ってくれた。
 肯定されたことで金香はほっとした。小説家の先生に、指導を『良い』と言われたことに嬉しくなる。
 そして思った。
 この人は他人の言うことを否定しない。
 どんなことでも一度受け止めてくれる。
 自分の意見を言うのはそのあとだ。
 それはとても容量の大きいことだ、と金香は感じた。
「先生にまた見ていただければ、どんなに子供たちの勉強が進むでしょう」
「そう言っていただけると嬉しいな」