そのあとは町中を散策した。
 とはいえ一番近い町なので大体のところは知っている。
 普段訪れる雑貨屋で小物を見たり、文を書く者らしく本屋へも行った。
 このときだけは麓乎は『先生』の顔になり、あれがいい、これも参考になると色々教えてくれた。
 これはこれで興味深く、金香は幾つも手に取り、そして一冊買って貰ってしまった。
 それは外国の本だった。小説だ。中を少し見たが、翻訳してあるので読むのには困らなさそうである。
 「海外の本を読むのも勉強になるからね」と買ってくれたのである。麓乎の気に入りの作家のものだそうだ。
 「帰って読むのが楽しみです」と、金香は包んでもらった本を抱えて笑った。
 今日はずっと笑っている気がした。
 ディト、という名前のとおり、とても特別で素敵な日。
 それは日の暮れる頃、「そろそろ帰ろう」と言われて帰路につくのが惜しくなってしまうほどに。
 帰ったらいつも通りの日常が待っている。
 日常だってとても楽しいものだ。
 麓乎がいて、屋敷の皆がいて、寺子屋の子供たちや先生もいる。
 けれど麓乎と二人きりで過ごせるこのときとはやはり違う。
 またこういう時間も過ごせたらいい。
 そう思った金香と同じことを麓乎も思ってくれたらしい。
 「また来よう」と言ってくれた。
「今度は町の外へ行ってみても良いかもしれないね。車に乗せてくれる商売もあるそうだから、また調べておくよ」
「楽しみです」
 歩くうちに通りかかったのは河川だった。春には桜が咲き誇る大きめの川。
 今は裸の樹しかないちょっと寂しい光景であったが。それでも流れる水は澄んで美しかった。
 そしてなにもないわけではない、道のわきには椿が咲いていた。
 同じ紅だが、薔薇とは違う趣がある。どちらもうつくしさに変わりはない。
 金香がそれに見入っていることに気付いたのだろう、麓乎は足をとめた。
「今度、椿を題にしようか」
「はい。楽しいものが書けそうです」
 そんな何気ないやり取りをしたのだが。不意に麓乎が手を伸ばした。
 金香の頬に触れる。どきりとしたが麓乎の手はただ頬を撫でるだけだった。
 不思議に思っていると、言われた。
「ちょっと目を閉じていてご覧」
 きょとんとしたのがわかったのだろう。ふっと笑って「いいから」と言われる。
 拒む理由もなかったので、金香は大人しく目を閉じた。目を閉じながらどきどきしてしまったが。
 くちづけでもされるのではないか、と。
 しかしもう交際して随分経つ。そしてくちづけをするようになっても随分経つ。
 だいぶ慣れてきていた。やはり緊張はしてしまうのだが。
 が、金香の想像したようなことは起こらなかった。なにかごそごそと音がする。
 なんでしょう。
 思いながらおとなしくしていると頭になにかが触れた。髪を弄られているようだ。
 なんでしょう。
 また思ったが、今度はわかった。
 髪飾りだ、きっと。
 なにかくださるのかしら。
 期待に胸が湧いたとき、麓乎が「いいよ」と言った。
 目の前に見えたのは麓乎だけ。髪になにかつけられたのはわかるが、自分で見えるはずもない。
「髪にもなにかつけたほうが良いかと思って、髪飾りを付けたのだけど……すまない、見えないね」
「え、えっと、見てみます!」
 ちょっと困ったように言われたがそれには及ばない。小さな鏡を持ってきていた。
 鏡を出して自分の顔を映す。少し顔を傾けると紅(あか)いものが見えた。
 髪につけられたもの、それは紅いりぼんだった。箔が入っているようで角度を変えるたびにきらきらと輝く。
「……とても綺麗です」
 ほう、と感嘆の声が出た。
 一体、いつこれを。
 思ったものの、すぐにわかった。
 帰る前。茶屋の椅子に金香をおいて、「少し用を済ませてくる」と麓乎は少しどこかへ行ってしまったのだ。
 なにかご用事でもあられるのかもしれない、と思った金香は「はい」とだけ答えて、茶屋で出して貰った茶を飲んでいたのだが。きっとあのときだ。