「このまま消えてしまえたらいいのに。誰も私のことなんて知らない、違う世界に行けたらいいのに」

 誰もいないのをいいことに、ありえない妄想を口に出してみる。そうなったら、元彼も店長も、少しは心配してくれるかもしれない。いや、もしかしたらほっとするかもしれないな。私がいなくなって本気で心配してくれる人なんて、いったい何人いるのだろう。

 薄暗い従業員階段を降りていると、急に足元がもつれた。

「――あ」

 手すりを握り、あわてて体勢を立て直そうとしたけれど、遅かった。バランスを失った身体は、重力に従ってぐらりと傾く。

 ――まずい、これは……。落ちる。

 世界から音が消えて、スローモーションで流れていく景色。鞄の中身が宙に飛び出すのが見える。受け身って、どう取るんだっけ。職場での事故って、労災下りるんだっけ。

 人間が、死ぬかもしれないときに考えることなんて、案外しょうもないことだった。地面がぐんぐん近付いてきて、衝撃にそなえて目を閉じる。

 天国に行ったら、おばあちゃんに会えるかな。あんなに大事にしていたブティックを守れなくて、ごめんなさい。ああ、どうせなら、素敵な恋をしてから死にたかった。

 最後に思い浮かんだ顔が、元彼でも店長でもなく、大好きなおばあちゃんの笑顔だったことに安堵して、私は全身の力を抜いた。