ろくはこの二年、東條に会うことなく生きてきた。
 言葉や態度で示した事はなかったが、父のように慕ってきた東條に、復讐を誓い、血に塗れて生きてきた自分の姿を見せることは、なんとなしに気が引けた。

 誰が死んでも構わないが、東條が死ぬのだけは見たくはない――ろくは、そんな風に想い、胸が痛んだのを感じていた。
 そこに、からかうような声が上がる。

「なんだよお前、よっぽど変な奴の下についたことあんの?」
「ここだけの話だけどさぁ……」

 声を潜めた青年兵に、ろくは自然と耳が向いた。
 青年兵がどの部隊にいようと、どうでも良いと思いつつ、耳を欹(そばだ)てる。情報こそが戦場で生き残る術である事を、ろくはよく理解していたからだ。

「赤井セイ小関(しょうせき)の下に就いた事があってさ……」
 青年兵は先程、鬨の声を上げる音頭をとった男をチラリと見た。男はそのまま、美章軍の前列に騎乗している。

「なんだよ。そんなに酷かったの?」
「……大多数が死んだよ。しかも負けた」
「ふ~ん……。赤井小関って、貴族出身だったっけ?」
「うん。しかも元文官」
「ああ……そりゃ――」

 最悪だな――と、続く言葉に青年は口を閉ざした。
 浮かない顔になった青年兵達を見ながら、ろくは片眉を上げた。
 なるほど、赤井セイは文官上がりの無能ね――と、ろくは口の中で呟く。

 貴族が武官になることは、決して珍しい事ではない。
 立派な武人が貴族出身であるということは、誉でもあるからだ。何を隠そう、東條三関も貴族出身の武人であった。しかし、中には武人に向かない者もいる。
 
 そういった者達は貴族のプライドがあるが故、位を金やコネで買うという事が、美章国では横行していた。
 中でも性質が悪いのは、文官であったものが、武官に鞍替えするというもので、とくに跡目を継げない貴族に多かった。

 跡目を継ぐ貴族は、文官のまま出世していくのが常だが、跡が継げないと分かった後で、名声を得ようと武官に鞍替えする者がいる。

 そういった者は殆どが武としての才を持たないので、コネや金に頼る。
 もちろん、中には才のある者もいるが、そんな者は稀だった。
 そんな話を聞く中で、ろくは、ふと連と梓を思い出した。

 蓮からこの話を聞いた時、ろくは、『幾度も戦を仕掛けられてるってのに、そんな事をしてる場合なのかね。軍事こそ、実力至上主義にしないでどうすんの?』と、呆れ返った。
 蓮も梓も、その進言に深く賛同してくれた。

『真っ先に命を賭けるのは、私達兵士なのだから、指揮官はちゃんと考えてくれる人が良いわ』
『ほんっと、迷惑だよな!』と、憤慨した梓が目に浮かんで、思わず静かに笑みが漏れる。

「兄ちゃん、今獅庵で功歩軍と戦ってるんだよな……」

 ろくの隣の男がぼそっと、独りごちた。
 兄は無事だろうか――と、三十になったばかりの男は想いを馳せるように空を見上げた。
 獅庵と言えば、ここから数十キロ離れた地域である。

(獅庵か……もしかしたら……)

 ろくが思案を巡らせた時、わっと歓声が湧いた。その先には、紅いラングルに跨った初老の男がいる。威厳を放ち、戦地に赴く鋭い目付きをした男――東條だ。
 ろくは驚きと懐かしさで、心が浮くのを感じた。
 
 戦場で見た東條は、厳格で、威厳があり、万人にはないオーラが感じられた。
 東條は兵達に向き直った。
 そして、それぞれを一望し、手を垂直に挙げる。これは、合図だ。

 梯子の上から、兵士がドラゴンの角笛を構えた。
 東條はそれを見届けて大きく息を吸った。
 その手を、地に向って勢い良く振り下ろす。