* * *


 時刻は十一時。約束の時間までは三時間あったが、花野井は要塞の壁沿いにいた。
 ゆりを抱えながら壁沿いに身を隠す。
 十一時と言っても、もはや辺りに明かりはなく、夜を照らす月明かりも厚い壁に遮られている。
 
 遠くの花街ではまだ明かりが煌々としていたが、その光が届く事はない。
 花野井は周囲を見回し、すやすやと眠るゆりを抱えて軽くジャンプした。常人がスキップをする程度の力で、十五メートル以上はある壁を僅かに越えて上部に着地した。
 それと同時に、驚きに満ちた悲鳴が上がった。

「うわっ!」

 花野井が目線を上げると、そこには四人の憲兵がいた。巡回中だった二組の憲兵と鉢合わせしたのだ。
 花野井は憲兵がなにかを発するよりも速く動いた。
 ゆりを肩に抱えたまま、憲兵の顔を掴み、鈍い音を立てて潰した。そしてすぐさま袖口の金属板から大剣を取り出した。
 憲兵からしてみれば、袖口からいきなり大剣が捻り出てきたように見えただろう。驚きながら後ずさる。が、次の瞬間三人は吹き飛び、悲鳴を上げる間もなく、岐附へと落下した。


 * * *


 国境を越えていた翼は、眠たそうにあくびをしながら、憲兵に見つからないように壁沿いに背中をくっつけていた。
 辺りは静寂に包まれ、月明かりが薄雲から弱々しく伸びる。
 月の位置からして、壁の向こうに月明かりが届く事はなさそうだった。

「ゆりちゃん達、もうきてるかなぁ?」

 翼は壁に寄りかかりながら、腕を組んだ。

「花野井さんも食っちまおうかな……」

 ぽつりと呟く声が冷たい。だが、それはすぐに明るい声音となって打ち消された。

「でもなぁ! 花野井さん良い奴なんだよなぁ!」

 花野井と翼は気が合った。
 元来自由奔放な者同士、通じるところがあったようだ。黒田のライバルでなければ、良き友人になれたのに、と翼は残念に思う。
 翼は内ポケットから小さなウロガンドを取り出した。約束の時間まではまだまだだった小さくため息をつこうとしたとき、風を切る音が、上空から僅かばかりに聞こえてきた。

 翼が見上げようとしたのと同時に、重苦しい音が地面に響いた。
 ぐしゃりと潰れた人間の顔。ありえない方向へ曲がった首。そんな死体が三体も地面に叩きつけられて横たわっている。

 翼は驚きながら、まじまじと死体を見た。鎧から、爛の憲兵だと察する。

「なんだってこんな……」

 訝しがっていると、目線の端で何かが縦に横切ったのを捕らえた。瞬時にそちらに顔を向けると、そこにいたのはゆりを抱えた花野井だった。
 花野井が翼に気づいて近寄ってきた。

「よう!」
「はっは~ん。これ、花野井さんの仕業っすね」
「まあな」
「入国証、盗るのは嫌がったくせに、こっちは良いんすか?」
「そっちは一般人だろ。こっちは兵士だ。全然意味が違う」
「そっすかねぇ……まあ、そっすね。全部で三人っすか」
「いや、もう一人上にいる。ここをさっさと離れた方が良いな」
「大丈夫っすよ」

 軽く言って微笑んだ翼に、花野井は訝しげな顔を向ける。翼は小さく指を鳴らした。その途端、壁に射していた翼の姿をかたどった薄い影が、ぐらりと揺らいだ。

 影はぬるりと形を変え、地面に転がった三人の遺体を覆うほどの大きさに広がる。ぽっかりと穴の開いたような影の中に、死体はずぶずぶと沈みこんでいった。
 そしてその影は、壁を這うように上へ向って移動した。
 
「証拠隠滅っす。これで貸しひとつっすね」
「……そうだな」

 花野井は驚きを隠してにやりと笑んだ。