小説ドラマはクランクイン間近で、初週から登場予定の俳優らは、ロケ地である東北地方に続々と向かっているらしい。

「じゃ、行って来る」

 キャリーケースを携えた奏は、靴を履くと由莉を引き寄せ、唇を合わせるだけの短いキスを落とした。
 一回目のロケは一ケ月ほどの長丁場だという。奏はヒロインの家族を演じるので期間中ずっと出番があり、終わるまで帰って来れない。
「体調に気をつけて、頑張ってね」
「ありがとう。由莉、ロケ中に取材来るんだっけ?」
「今回はショーンの出番ないから行けないけど、二回目は行く予定してるよ」
 密着取材のことは、もちろん話してある。ショーンの出番は限られた期間だけなので、もう少し後、都内のスタジオでの撮影から入ることになっていた。
「あいつの場合、早めに現場入って雰囲気に慣れといた方がいいんじゃないか」
 奏は薄く笑いながら言った。
「まさかこのドラマで共演するとは思わなかった」
 彼が由莉の弟のような存在だったことを、奏は知っている。カオルからも直接、ショーンのことをよろしく頼みたいと言われたらしい。
「カオルさんの頼みじゃ面倒みてやるしかないな。あいつ、コミュ障ちょっとはマシになった?」
 その口ぶりに何か嫌なものを感じたが、とがめて出がけの空気を悪くしたくない。由莉は流して微笑んだ。
「努力してるみたいよ。学ばせて欲しいって」
「俺に? そんなこと言えるようになったんだな。まあ、可愛がってやるか」
「いじめないでよ?」
 冗談めかして言うと、奏は肩をすくめた。
「ガキのころのこととはいえ、由莉を取らないでって泣かれた印象が強いからな」
「いつの話?」
 初耳だった。
「つき合いはじめた時。すごい目でにらまれたよ」
「それ、本当……?」
 奏との交際は由莉の十七歳の誕生日がはじまりで、ショーンは当時まだ小学生だったはずである。
「由莉は弟みたいに可愛がってたけど、向こうにとっては初恋だったんじゃないか。あいつ、今は婚約者いるんだろ?」
 ショーンの恋人が架空の設定だということは、事務所内でも数人しか知らない極秘事項で、奏にも言うなと口止めされていた。

「由莉に似てたりしてな」

 夫の言葉がナイフのように由莉の心に突き刺さる――私に似た女ばかり選ぶのはあなたの方でしょう?

 ざわつく胸の内から目をそらし、由莉は夫に抱きついた。
「どうした?」
「やっぱり、一ケ月も会えないなんて寂しい」
「俺だって本音は寂しいよ」
 奏は由莉の髪を優しく撫でた。
「由莉、愛してる」
「……私も」
 キスしようと顔をかたむけた奏から、由莉はスッと身を引いて離れる。
「わがまま言ってごめん」
 明るい表情を作って手を振った。
「良い仕事して帰って来てね」
 情熱的なキスで誤魔化されるのは、もう嫌だった。



 奏は新幹線で現地に向かうのだが、車で東京駅まで送ると言ったら、マネージャーが迎えに来るからと断られた。
 由莉はそれを素直に信じられないでいる。マネージャーの他に、妻に会わせたくない同行者がいるような気がするのだ。
 見送りを終えてリビングに戻ると、テーブルに置いてある薄い冊子が目に留まる。小説ドラマの発表会見で配られた資料だ。由莉はページをめくり、一人の若い女優に目をとめる。

「沢《さわ》彩音《あやね》……」

 ヒロインの親友役を演じるその女優は、腰まである長い黒髪が印象的である。読者モデルから芸能界に入って、若い世代にはアイドル的な人気があった。
 以前からテレビや雑誌で見かけるたびに感じていたのだが、彼女は若い頃の由莉に顔立ちまで似通っている。今まで奏が浮気してきた女達の誰よりも。
「二十一歳の子と不倫なんてバレたら、このドラマも降板させられるかもしれないし、まさかね」
 由莉は祈るような気持ちでパタンと冊子を閉じた。