稀一郎さんが秘書になって3ヶ月がたった頃、
ホテルのメインゲートに止まったタクシーに、私は駆け寄りドアマンの布施さんとお客様をお迎えした。

お客様は女性のお客様お一人で、タクシーの運転手がお釣が無いとかで、お客様は私達に1万円札を両替して欲しいと言う。
最寄りの駅からだと、ワンメーターで来る事が出来る。多分、このお客様も最寄りの駅からタクシーで来られたのだろう。
だが、私達は両替用のお金は持っていない。と言うより、勤務中は貴重品はロッカーの中に置いてあるのだ。

「申し訳ありません。フロントでしたら」と私は答えた。勿論、布施さんも同じで、両替する様なお金は持っていないと言う。

するとそのお客様は私達にこう言った。

「ホテルマンは訪れるお客様に寛ぎのひと時を提供するのが仕事です。勿論スマートにです!
それは、お客様がメインゲートへ一歩降り立った時から始まってます。
これからは両替用の新札を常に用意しておいて下さい。ドアマンは勿論、ベルもお客様へ最初に接するホテルの顔ですから?」

え?
何この人…
誰?

常連のお客様や大株主のお客様の顔は、私も既に覚えてる。
じゃ、系列会社のお偉いさん?

私は、布施さんの顔を見ると布施さんは首を振る。
お客様の言葉に呆けてる私達を、そのお客様はクスッと笑った。

本社のお偉いさんでも、大株主でもない。
じゃ、だれ?

私の頭の中に浮かんだのは、顔も知らない深田恭子さんの名前だった。

あっ!

この人が深田恭子さんなら、先程の注意も分かる気がする。

どうする?
聞いてみる?
でも、もし違ったら失礼になる。

その時の私は無意識に、左手の薬指にある指輪を触っていた。

「新婚さんかしら?」

「え?」

「まだ、新しい様だから?
でも、指輪を触る癖はやめた方が良いわ」

「えっ! あっすいません…」

そのお客様は、お一人でフロントへと向かっていかれ、その日偶々、フロントに顔を出していた稀一郎さんへ優しい微笑みを向け、楽しそうに話していた。

きっと、あの人は深田恭子さんだ。

私が見つめていたのが分かったのか、稀一郎さんは私にフロントへ来る様に右手を挙げた。

「彼女が深田恭子さんだよ?
また、改めて紹介するから」

稀一郎さんはそれだけを言って、事務所へと入って行った。

やっぱり…
彼女だった。